大学院は最先端の知識を教えるところではない

久々の休日。出張中の洗濯物を片付けたりする。

「ハーバード白熱日本史教室」を読み終わる。

ハーバード白熱日本史教室 (新潮新書)

ハーバード白熱日本史教室 (新潮新書)

実のところ、この本はタイトルが二番煎じ、三番煎じな感じで、毎回本屋で手に取っては戻していたのだが、今回 id:langstat さんがこの本の著者の方の講演について書かれていたのを読み、langstat さんがそこまでおっしゃるならおもしろいだろう、と思って意を決して読んだのであった。(Amazon のレビューもいま初めて見たが、評価はまっぷたつである)

結論から言うと、おもしろかった。自分に娘が生まれたら、中学生か高校生のときくらいに読ませてあげたい、と考えるくらいである。特に第1章は、著者がなぜ学部でカナダ (ブリティッシュコロンビア大学) に留学し、数学科を専攻したのにひょんなことから修士では日本史を専攻することになったか、そして行きたかったハーバードではなくプリンストン大学で博士号を取得し、講師としてなぜか博士課程では進学できなかったハーバードで教えることになったか、いろいろな挫折とともに語られていて、海外留学あるいは海外で仕事をすることを考えている人にも参考になるだろう。

特に学生に対して日本史の授業で何を伝えたいか、というスタンスに関して、アメリカの (おもしろいという噂を聞きつけて履修登録する99%近い学生が、日本語は読めないし、当然日本史どころか歴代を専攻するわけでもない) 大学生を相手に日本史を教える意義を述べられていて、大変共感する。(教えている日本史の内容は、正直ちょっと違うんじゃないかと思うが、何を教えるかというよりどう教えるかというのが、なるほどと思う部分)

NAISTでも、松本研は博士後期課程に進学する割合が比較的高い (2割程度) とはいえ、ほとんどの学生が修士で就職する、もっというと卒業していく8割以上の学生は、大学院で研究した自然言語処理を活用するような仕事に就くわけではないし、そういう現状を踏まえると、専門 (自然言語処理) 知識を教えるというのは、そもそも学生に伝えるべき最優先の事項ではないと思っているのである。もちろん言語について知る楽しさや奥深さに触れてもらいたいと思うが、自分が学生に持ち帰ってほしいなと思うのは、自分でプログラムを書き、現実のデータからまだ誰も発見していない有用な (つまり、自分以外の人が見ても「これは役に立つね!」あるいは「これはおもしろいね!」と思ってもらえるような) 知識を抽出できる、という体験である。

ここにはポイントが2つあって、一つはプログラミングの練習問題やコンテストを解くようなのと違い、技術的に難しいことやパズル的におもしろいことをしたい、というのではなく、平凡でも自明でもいいので、自分以外の誰かのために自分の書いたプログラムあるいはその出力結果が使われるような、そういうプログラムを書いてほしい、ということである。仕事でプログラムを書いている人には「なにを今さら」と言われるかもしれないが、大学にいていくら授業の課題でプログラムを書いても、(チームで参加する形式のものは違うが、個人で参加する) プログラミングコンテストに参加しても、他人のために書くわけではないので、やっぱりそこは違うんじゃないかと思うのだ。もちろん自分で楽しむために趣味で書くことを否定するものではまったくなく、それに加えてそこで培った能力を周りに還元していってほしいのである。

もう一つのポイントは、誰もやったことがないことに挑戦する、という点である。学校生活が長いと、ともするとテキストに載っていること、あるいは誰か他の人が論文に書いていることを読むだけで分かったつもりになることが往々にしてあるが (自分も最近そうなりつつあって危機感を覚えているのだが……)、どんな小さなことでもいいので、世界中の誰もが知らないことを発見してほしいのである (初めてならなんでもいいというわけではないのは上に書いたとおり)。実際手を動かしてみると、いかに新しいもの (辞書なりコーパスなり、あるいはツール・ライブラリなり、はたまた論文や書籍) を生み出すのは大変か、ということが実感として分かるし、口では大きなことが言えても自分がそのうち取り組めるのはほんの少しだけ、ということが体感できるかと思う。

自分も口だけではなくもう一仕事くらいしたいなと思う日々である。