ボランティア与える方が救われる

日曜日であるが、上の子が教会学校に行っていなかったので、断続的に国際会議の投稿論文にコメントを入れる。〆切の1週間前になっても原稿が来なくてドキドキしたが、博士後期課程の学生ともなれば初稿でもしっかり書けていて、そこまで心配することもなかった。このタイミングだと英文校正に出すことができないのが気にかかる。自分の感覚では、COLING 以下のランクの国際会議は英文校正に出していなくても通るが(何本か通っていた記憶がある)、ACL/EMNLP クラスになると英文校正に出していない論文は厳しい(記憶の限りでは1本も通ったことがない)。ただ、これは英語のクオリティというよりは、英文校正に出せるくらい余裕を持って原稿が準備できているかどうか、の方が関係してそうである。

上の子は教会学校に行くのが楽しみなようで、教会だと献金をするのであるが、最近は家で「お手伝いしたからお小遣いちょうだい」と言うので1回5円だとか10円だとか渡しているのだが、そのお金を何に使うのかと思いきや、教会で献金するために貯めている、と言うのでびっくりした。自分自身は自分の小遣いを教会で献金したいと思ったことは一度もないし、いつも親から渡されるお金をそのまま献金箱に入れるだけだったのだが、娘は「お小遣いから出せば、おばあちゃんからお金もらわなくていいでしょ」と言っていて、もはや全然考え方が違って驚くばかりである。思えばハロウィンでもお菓子をもらうのではなく周りの子に配って回っていたし、何かをもらうより与える方が好きな子なのかもしれない。

まあ、自分も物心つく前から中学に入るまで教会に通っていたのが、大学に入ってから教育用計算機センターシステム相談員(週何時間かお金が出たけど、それ以外の勤務はボランティア)をしたり、オープンソース開発活動(完全にボランティア)に参加したり、金銭的には特に見合わないと思われる大学教員の仕事をしたりしていても、特に不満はなく、むしろ与えている方が心の平安が得られる、というのに影響を与えているのかなとは思う。小さいころの教育にお金をかけるのがもっとも効果的だと言われるが、お勉強を教えたりすることに自分は特に興味はなく、こういう価値観だとか感覚を形成できる環境で育ってくれるといいな、と思っている。

ちなみに、学部生のころは、働かなくてもいいだけのお金があったら働かない、と思っていたのだが、大学院に入って博士後期課程に進学し、自分のできることも増えてきたし、仕事をしている方がチャレンジングでおもしろいことが増えてくると、お金があったら働かないかと言われると、そうでもないかも、と最近は思っている。学部生のとき「あなたはお金がもらえなくっても、誰かに何かを教える仕事をしていると思う」と言われたことがあり、そんなことするわけないと思っていたが、確かにそうかもなぁ、と最近では感じる(学部生のころも、ニュース)。