使えそうな論文を探すことが研究ではない

午前中、中学高校時代の同級生である S 末が仕事で NAIST に来るというのでランチを一緒に食べる。同じくお仕事で来られていた上司の方が NAIST の2期生で、鹿野研1期生ということでびっくり。現在は室長をされているそうだが、NAIST も20年経って、各界で活躍されている方がたくさんいらっしゃるということで、やっぱりいい大学なんじゃないかなぁ、と思った。(こんなに不便でも、卒業生がいい思い出を持っていてくれる大学というのは、そうそうないだろう)

お昼、ちょっと嬉しいお知らせ。研究室を回していくというのは思ったより大変で、特に研究室を立ち上げるときはいろいろと気にしなければいけないことがあり、ポスドク助教をしながら少しずつ大学で研究室を運営するやり方を学んでいくのであろう。(ということを、NAIST ができた当時の話をお聞きしたりしても思う)

NAIST の図書館で先日「アメリカの研究費と NIH」を借りて読んだ。

正直なところ、NIH とアメリカの研究費に関しては、以前紹介したアメリカNIHの生命科学戦略」のほうが参考になると思うが、1996年に出版された (それより前に書かれた) 「アメリカの研究費と NIH」を読むと、かれこれ現在から15年前の日本についての話になるのだが、「これがアメリカと比べると日本の研究費制度のダメなところだ」と書かれているところがほとんど全部過去の話になっていて、ほぼここに書かれているアメリカの研究費システムそのものになっているのが、逆にすごいと思う。日本の教育はアメリカのX年後を追う、という話をときどき聞くが、まさしくそんな感じ。アメリカのシステムのダメなところもコピーするところがなんとも言えないが……。

特任 (特命あるいは特定と呼ばれることも) 助教・講師・准教授・教授といった (少なくとも建前の上では) プロジェクトによって雇用される任期制のポストが少しずつ日本でも増えていて、アメリカのように任期付のポストを渡り歩き続けて定年までいられるようになるというのは、35歳を過ぎると任期付のポストが極端に減ってしまう現状と比べると、研究をずっと続けるキャリアパスがあるというのでよいことだとは思うが、過渡期なのでややこしい。医学・看護学系の一部の大学では「臨床教授」「教授」という職位があって、前者は臨床中心に仕事をする (必ずしも研究をしない) となっているそうだが、情報系で同じようなのを導入したら「開発教授」になるのかな?

午後、研究室の全体ゼミで M1 の2人の進捗報告。M1 でも12月にもなると、段々研究っぽい話になってくる。

これは今回の M1 が、というわけではないが、最近 M1/M2 の人の進捗を聞くと、「サーベイしていたら (Foo 2009) という論文を見つけたので、自分の研究ではこれを実装したいと思います」というような「研究」発表がときどきあるのだが、ちょっと違和感がある。というのも、研究というのは世界中の誰も挑戦したことのない新しいものをやる、というのが研究であり、それは修士の学生だろうが学部の学生だろうが同じであって、過去の誰かが既に論文として公開している手法を実装するのは、開発ではあるが研究ではありえないのである。

先行研究で提案されていた手法を使うのは別にかまわないのだが、そこには研究としての新規性はないので、自分の研究の貢献がどこにあるのか、自分の研究によって世の中でまだ明らかになっていなかった何が分かった (これから分かる) のか、ということを意識してほしい。恐らく「この先行研究は精度が現在のところ一番高いと報告されているし、実装も難しそうじゃないからよさそう」と思って「使いたく」なるのだろうが、自分がやるべきことは先行研究の再実装ではなく、その先行研究のさらに先に行くことであり、「既存の手法を再実装したらけっこう高い精度が出たので満足です」というのは研究ではない (繰り返しになるが、開発としてはそれは優れた態度かもしれないが)。もし再実装することになったら (それが研究テーマの一部になるのであれば)、それは倒すべきベースライン (比較手法) の1つなのであって、それを作れば修士論文です、というものではないのである。

言い換えると、「高い精度でよさげに見える手法」をベースラインに据えるというのは、強い敵を相手に戦いたいというすばらしい心構えなのかもしれないが、再実装したら実験が終わりになるのではなく、再実装したところがようやくスタートラインで、そこからそれを超える (世界で誰もまだ試していない) 手法を編み出す必要があるのだ。卒論・修論でそんなことができるの? と無茶に聞こえるかもしれないが、全然無茶なことではなく、与えられた問題を的確に分析して改善策を提案する、ということこそが修士までには身に付けるべき能力であって、大学や大学院というのは、そういうやり方を身につけに来るところである。(少なくとも NAIST はそれに成功していると思われるし、自分も修士の学生に関しては修士論文を書き終わるまでに一通りやり方が体験できるように意識している)

もし「よさそうな論文を探す (そして実装する)」というのが研究だと思っている人がいたら、ちょっと立ち止まって上記のようなことを考えてほしい。研究というのは、答えがあることが分かっている問題の答えを検索して見つけるということではなく、答えがあるかどうか分からない問題の中から自分で取り組むべき問題を設定して、自力で解く、というものである。既に同じ問題に取り組んでいるかもしれない論文を検索もしないのは論外だが、検索するだけで終わるのは危険である。過去の研究を調べて、人類がどこまで分かっていてどこからが分からないのかを把握して、分からない領域に一歩踏み出すことこそが、挑戦するべき意欲的な課題なのである。

夕方、12月に来る新計算機システムの打ち合わせ。管理者としてやることがいろいろあるので、研究室内の計算機係の方々にお仕事をお願いする (M2 の人は修士論文で忙しいと思われる時期なので、負担を軽く)。いろいろ動いてくれてありがたい。うまく行くとよいのだけど……。

夜、大学の近くの内科・消化器科に行って胃の様子を診てもらう。とりあえず夜間は胃酸の分泌を抑える薬を飲んで、インドから帰国後に胃カメラを飲むことに。鼻から入れるタイプの (あまり苦しくない) 胃カメラを持っている病院・医院はそんなに多くないようだが、大学の近くにたまたまあってよかった。