灘校と自由放任の武蔵

最近近畿圏での生活をいろいろと調べているので、

灘校 なぜ「日本一」であり続けるのか (光文社新書)

灘校 なぜ「日本一」であり続けるのか (光文社新書)

を読んでみた。関西の子どもたちもいろいろ苦労しているんだなぁ、と思ったりなんだり。

灘は筑駒をモデルにしている(という教師もいる)そうだが、麻布と提携しているそうで、灘の生徒は親が関東に転勤になったら自動的に麻布に転校できて、逆に麻布の生徒は親が関西に転勤になったら灘に転校できるらしい。これはおもしろい制度。しかしこんな詰め込み教育していてもああいうふうに灘の生徒が育つというのは少々意外。もっと自由にやらせているのかと思っていたのだが……。

武蔵は教育放棄と言ってもいいくらいまともに授業をしない学校だったが、生徒のやる気を削がないという意味では優れた「教育」をしていたと思う。武蔵が東大合格者数を最近大幅に減らして「凋落」しているということ(この本にもその話が数回出てくる)だが、それも当然なことで、そもそもあんな授業で大学に受かっていたことのほうが不思議な気がする。とにかく生徒のやりたいように好きなことをやらせる、というのが唯一決まっていて、それを維持するために先生方が努力している、という感じなのだが、親御さん(や外野の人)たちはそれでは許してくれないのだろうなぁ。

最近武蔵からは直接海外の大学に進学する生徒もちらほらいるようで、そういうのも喜ばしいことである。武蔵は在学中に交換留学する制度が昔からあり、生徒の1割くらいがそれを利用して数週間から数ヶ月海外に行く。中学3年生から第二外国語を履修することができるので、イギリス(イートン校)か、履修している第二外国語の国(中国・ドイツ・フランス・韓国)に行けるのだが、そういう制度があることで生徒も海外に目を向けやすいのであろう。最近は猫も杓子も国際化、英語だなんだと言うので海外行くのも珍しくもないのかもしれないが、英語だけじゃなくてちゃんといろんな言語の選択肢も用意すれば、こんな国際化する遥か昔(開学90周年くらい)からこういう教育をしているというのは、先見の明があると思うし、誇っていいことだと思う。

先日 makoto-o くんが奈良に来ていたとき「フリースクールを作りたい」と言っていたが、自由にやらせても割と子どもはなんとかするんじゃなかろうか。大人の側が「こういう大人に育ってほしい」という信念を持って接していれば、そういうふうに育つ、みたいな……(ものすごく楽観的ではあるが)。ああしろこうしろ言うのも結構で、そういうスタイルが合っている人もいるのだが、自由にやるのが好きな子どもには武蔵みたいな学校はオアシスで、そういう学校も潰れずに残っていてほしいものである(まあ、盛者必衰ではあるし、長い目で見て没落するのは目に見えているが)。makoto-o くんの話では、そういうフリースクールを出た人は、大企業に勤めたりするわけではないのだが、自分の人生に対する満足度が抜群に高いそうだ。武蔵もそういう学校になればいいんじゃなかろうか。

そういうこれからのあるべき学校像を示すという意味では、著者の言っていることは古くさい(なんだかんだいって、東大京大もしくは国立大の医学部に入れればいいんじゃないの、みたいなの)ような気もする。もっとも、灘の卒業生がうだうだ思い出話を書くというのが恐らくこの本のコンセプトなので、それを期待するのはお門違いでもあろう。

最近中高一貫校で高校の募集も若干名しているところが、高校の募集を止めて完全中高一貫にしているという傾向がある(武蔵もそうである)。自分の経験からすると、高校から少しでも人が入ってくることで、中だるみする生徒に刺激を与えるのはとてもいいことだと思っていた。しかし、この本によると、最近は首都圏の学力上位層のほとんどみんな中学受験してどこかの学校に囲い込まれてしまうので、高校から募集しても優秀な生徒を取ることができなくなってきたので、苦渋の決断として中学の定員を増加させて高校の募集を止める、というのが一般的になっているらしい。言われてみると納得なのだが、やっぱりそれでもどう考えても中だるみするので、なんとかして生徒に刺激を与えたほうがいいように思う(全員交換留学させるとか?)。

自分が子どもをどこでどういうふうに育てるのか分からないが、悩ましい話である。(ともあれ、自分の息子はたぶん男子校には通わせないと思うので、考えるだけ時間の無駄かもしれないが……)