本屋に行ったら平積みだったので先日
- 作者: 太田あや
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
- 発売日: 2008/09/25
- メディア: 単行本
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を買って読んでみた。(買う前にパラパラとめくって、読むほどの価値はないかなと思ったが、一応書評を書くからには購入することにしている。mizu ちゃんに昨日「日記に載せている本、買って読んでいるの?」と言われたが、基本的に買って読んでいるので、NAIST の人で借りたい本があれば連絡されたし)
内容は見るところないと思うが、装丁がきれい。あとたぶん取り上げ方がうまいんじゃないかなぁ。これは釣りっぽいタイトルと文藝春秋の売り込み方の勝利。Amazon のリビューにも賛同するが、ネガティブなコメントについてはだいたいまとめると「ノート作成のような表面的なことより思考力のほうが大事」と「そもそもノートが汚い東大生は他人に見せないので美しいに決まっている」と「書いてあることは当たり前で取り立てて『東大』と言うのが鼻につく」といったところか。まあ、それは分かった上で読む(買う)のが正解だと思うのだが、自分はそれ以外にも感じるところがあった。
というのも、出てくる学生は浪人して予備校に通っていたか、もしくは現役時代から塾に通っていたか、もしくはいわゆる「御三家」と呼ばれるような学校に通っていた人、という共通点があり、ノートが美しく書けるような授業を受けている、というのが「東大合格生のノートが美しい」という背景にあるんじゃないかなぁ。そもそも自分は中学高校時代きれいにノートを取った記憶がない(左手で文字が書けるようになりたいと思って左手で1年間くらいノートを取ったり、いろいろなサイズのノートを試したりしたせいもあるが)が、それは授業があまりに東大に受からなさそうな感じの授業だったせいで、浪人して予備校に通って初めて「こんなに授業って楽しいのか!」と驚いたくらいだからである。
それからタイトルに戻るのだが、これは「東大生のノートはかならず美しい」ではなく「東大合格生のノートはかならず美しい」のである。たぶん東大に入ったら、そこで繰り広げられている授業は必ずしも美しいノートが取れる授業ではなく、予備校やトップ進学校のように教育のプロがノートを取りやすい授業をしているわけでもなく、みんなそれぞれ「本来」のノートの取り方に回帰していくのではないかと思う。実際、この本に出てくるノートの例のいくつかは、それが代ゼミで授業を受けた人のノートであることを当てることができるし、そういうふうに美しくノートが取れるくらいまで教えることが均質化・パッケージ化しているため、結果として誰がノートを取ってもそれなにりきれいに取れるのではないかと思われる。
自分の結論としては、美しいノートを(あまり頭を使わないで)取りたければ、教育のプロが教えているところへ行け、ということかな。結局のところ、そういうノートを取らせてくれる先生は、最初は形から入るかもしれないが、最終的には思考力を鍛えるところまで連れて行ってくれるのだと思う。よくある因果関係と相関関係の錯誤の例と同じだが、美しいノートが取れるから合格するのではなく、授業がよいので美しいノートが取れ、そしていい授業を受けたので東大にも合格できる、そういった関係なのではないかと思う。(Z 会なんかを作って独学で合格する人もいるし、全員が全員そうだと言うつもりはないが、少なくとも武蔵の学校の授業だけで予備校や塾に通うのを禁止して東大受けさせたら、合格者数は1桁になるだろう)
自分はというと、予備校時代はがんばって美しいノートを取っていたが、大学に入ったらまた高校時代のような汚いノートを取るように退化してしまった。ただ、一方的に知識を吸収するようなステージから、自分の頭で考えて自分で判断するステージに進んだので、汚いノートだからといって一概に悪いわけではないと思うが……。(大学院に来てからまたきれいなノートを取るように直したところ、研究が捗るようになったので、やはり美しくノートが取れるように頭の中を整理しておくことが重要なのだと思う)
あと本筋とは離れるが、こういう話を聞くと、自然言語処理的には、同じくらいの偏差値で、受かった人たちと落ちた人たちとのグループでノートを比較して、どういうことをすると落ちてどういうことをすると受かるのか、見てみたい。(つまり、同じ授業を聞いて美しいノートを取っているにも関わらず落ちる場合、どこが原因なのか、比較すれば分かるかもしれないということ。本当はノート以外の情報も使わないと分からないのかもしれないけど) 手書きノートだと認識難しそうだが……