翻訳は何をしていることになる?

午前中は情報科学科の履修モデルを作成。海外に留学する学生に向けて、履修モデルを作成してオープンキャンパス等で配布するらしい。モデルケースを出すとその通りに履修する学生がいるので、あまり出さない方がいいと思うのだが(特にうちの学科は必修は卒論以外には5科目しかなく、自由に履修できる)、本学は留学する学生、留学してくる学生が同レベルの他大学と比べても少ないそうで、致し方ないようである。

午後は3時間ほどオフィスアワー。オフィスアワー制度が吉と出るか凶と出るかは来年に分かるであろう。

夕方は生涯教育講座の資料作成。一般向けなので数式は使わずに説明するわけだが、企画者の依頼で音声翻訳のデモを入れてほしいと言われていて、音声翻訳は専門じゃないんだけど……と思いつつ準備したりする(と言っても VoiceTra と Google 翻訳のアプリをダウンロードしてシナリオを考えるだけだが)。アプリの使い方を知りたいなら大学教員が説明する必要ないと思うのだけど、どこまで理論の話をしていいのか分からない(アプリの使い方は話したい内容ではないのだが、そういうのが求められている感がある)。

そういえば、鴻巣友季子「翻訳ってなんだろう?」を読んだ。

ニューラル機械翻訳はかなり流暢な出力が出せるようになったが、それは一体全体どういうことか、ということをここ半年ほど考えている。工学的には言語生成の評価とはなにか、ということを考える必要がある(認知科学というか認知工学みたいなことが必要?)が、手法的にはそもそも(いかに意味を理解しているように見えようが)意味を理解しているわけではない。分布類似度で意味が表現できていると思えるほどには、外延で意味が定義できるということなのだろうか。

本に戻ると、この本では洒落や詩のようなものを翻訳する、という課題を通じて翻訳とは何かを教えるのだが、出力が流暢である、ということとそれは必ずしも一致せず、翻訳元の表現で何を翻訳して何を翻訳しないのか、ということを決断しないといけない(意味が変わってもいいから語呂を揃えるとか、逆に韻を踏まなくなるが意味は通るようにするとか)、というのを実例で示している。こういうふうな翻訳は機械翻訳が目指しているところではないし、分布類似度で意味を扱おうとしている限り絶対に実現できないだろう……。