分からない場所まで戻るひと勇気

どうも昨日に雨に打たれたせいか、娘(2歳5ヶ月)も自分も鼻水が出て喉が痛い。あまり出かけず家で過ごすことにする。

とはいえ、雨が降っていないと娘も外に出たがるので、近所のセブンイレブンに。休日は必ず1日に1回は行かないと気が済まず、「ちぶん(セブン)にいく!」「なにかかう!」と言うので、雨がひどかったり、夜遅かったりしなければ連れて行っている。道すがら「たのしいねー。たのしいねー。」と繰り返しているので、こんな散歩で喜んでもらえるなら安いものである。

そういえば、「運動会楽しかったね」と話しかけると「うん、うんどうかいたのしみだった」と返ってくるのだが、「たのしかった」ではなく「たのしみだった」というのは興味深い。ちなみに、運動会の開催前は「運動会楽しみだね」と話しかけると「うん、うんどうかいたのしみ」と言っていたので、論理的には正しい応答なのであるが、「うんどうかいたのしみだった」という表現は「運動会が楽しみだったが、参加してみたら楽しくなかった」あるいは「運動会が楽しみだったが、参加できなかった」というようなことを示唆しているので、あまり言わない表現である、いうのはどうやって獲得できるのだろうか?(単純に頻度で言わなくなるのだろうか?)まだ2歳では、かなり難しい推論のように思う……。

午後は完全に晴れたので近所の公園に行く。「びーびーばん(BB弾)さがす!」と言うので付き合って探したりする。足元にそこそこたくさん落ちているのだが、自力では見つけられないようで、「あ、見つけちゃった」と声をかけると「どこ〜?」と聞いてくるので、「そこ」と指差すと見つけることができる。視力(特に周辺視野)がまだ発達していないのか、パターン認識能力が低いのか、謎である。視力的に見えていない、ということはなさそうなのだが、相当視野が狭い感じ。

そういえば「あまちゃん」のころから有村架純のファンなので、 Amazon Prime で今月配信が始まったらしい「ビリギャル」を見る。話自体は読んだので知っていたが、それでもおもしろかった。「ドラゴン桜」の慶應版みたいな感じ。

これは本当の「ビリギャル」じゃない、というような批判はあるだろうが、代ゼミの浪人生向けの寮に合計1年間(2年度)住み込みして受験生を見ていた経験からすると、こういう受験生を合格ラインまで持っていくのでも相当すごいと思う。本人が小学生レベルまで戻ってやり直してくれる、という素直なところが一番大事だと思うのだが、こういうふうに自分の分からないところまで戻れて、そして基礎をおろそかにしない人、というのは最後まで伸びる印象である(「ここからここまでは全部やりましょう」というところを飛ばしてしまい、かつ復習もしない人は、夏休み前まではいいのだが、夏休み以降に応用問題を解いているときに伸び悩む)。

しかし最近大学教員として学部入試制度について考えることがときどきあり、いわゆる文系の「英語」「社会」「小論文」という形式の入試はいいんだろうか、とちょっと思うところある。彼女のように一念発起して人生を変えるきっかけになる(あるいは苦手な科目があっても、試験科目に入っていない大学や学部を選んで受験できる)、というのは社会的に意味があるとは思うのだが(今は私立大と国公立大で住み分けているのだろうが)、入学後に必要な知識という意味で地歴を課すなら、2科目課したほうがいいんじゃないかなぁ。現在高校では世界史が必修になっているのだから、世界史+もう1科目とか。東大と京大の文系は地歴2科目必要なので、自分は世界史・地理を勉強したが、どちらも勉強してとても意味があった(その後の人生に影響を与えた)と思っている。まあ、そういう意味で科目を決めているわけではなく、あなたはどれくらい勉強しましたか、ということを聞くために科目を決めているとすると、別に科目はなんでもいいわけだが……。