初めての論文は書けなくてもとにかく書くしかない

朝来てコース(学科)幹事のお仕事。細々とした仕事がある。

午前中は卒論の添削。4pの原稿を書こうと思ったら4pより多く書いて削るのが基本だが、なかなか4pに達しないようである。必要な事項を書いていけばすぐ4pを超えるのだが、研究の論文を書いたことがなければ、何が必要か分からない、ということがよくある。自分も初めて自然言語処理の論文を書いたときはそうだったので、こうやって一通り体験できるのはよいことだと思う。

論文を初めて書くにしても、論文を多読すればだいたい感じが分かる人もいるのだが、完璧に書こうとして読み過ぎて逆に書けなくなる人もいるので、善し悪しかなぁ。ただ、いずれにせよ論文を多く読むことは研究的には重要なので、読んだ本数を可視化してみるとか、もっと継続的に論文を読むような仕組みを導入すればよかったと反省することしきりである。

研究会では卒論および共同研究の進捗報告。卒論の原稿も実験も、となると大変かなと思ったりする。原稿は一気に書こうと思えば書けるから、実験をひたすらやってもらったほうがいいのかな……。ただ、そうやってギリギリまで実験をしていて原稿が全然書けないと、お互いかなり窮地に立たされるので、並列で進められる原稿と実験はやはりバックグラウンドで同時に進めてもらったほうがよいようにも思う。どうするのが最適か、悩ましい。

午後も卒論の添削を挟み、共同研究の進捗報告。結果を見ていろいろとブレインストーミングをしたりする。身に付けるべきは「こういうときの次の手は何か」ではなく「こういうときどのようにして次の手を考えるか」であって、XのときはYをすればよい、というのを問題集を解くがごとくに丸暗記しても、別の分野に行ったらまた全部学び直さないといけないし、言われたことを丸覚えしても(よく似た問題に遭遇しないかぎり)応用範囲が狭いので、時間がかかっても自分の頭で考えたほうがよい。

それに関連して、やってみることというエントリを読んで、以下の部分に激しく同意。

知識偏重型の覚えればいいというタイプのものはインターネット時代には価値は低い。調べればわかることを無理して覚える必要は低い。

絵を描くとか楽器を演奏するとかは暗記ものと違って、練習をしたり、実際にやってみる必要があるタイプのものである。うまいヘタはあっても練習を重ねればある程度は出来るようになる。その対象に興味がなければ練習を続けることが苦痛で練習も熱心にやらないのであまり上達もしない。絵を描くことが好きな人は別に誰に言われるわけでもなく、ノートに落書きをしたりして、絵をひたすら描いている。自然と絵がうまくなって行く。

技量を身につけるということは結局はやってみるタイプの方法でしか身につかない。どんなに座学で学んでも実際にやってみないことには身につかない。

自転車に乗れるようになるには、転んだりしながらもやってみる必要がある。言葉に説明できなくても乗れるようになるまで試行錯誤を続けて練習をする必要がある。

スキルの獲得をするためには、教える/教わるという関係から、自ら学ぶことと学ぶことを支援するという関係にする必要がある。コーチとプレイヤーである。プレイヤーがトレーニングをしない限り、どんなコーチがいても意味がない。プレイヤーがもっとうまくなりたいという強い意思がない限り上達はしない。 

結局プログラムを書いたり研究をしたりするのは自転車に乗るようなスキルであって、対象に興味がない人が練習を続けるのは苦痛だと思うが、できなくてもやってみないと身に付かないし、言葉通り「プレイヤーがもっとうまくなりたいという強い意思がない限り上達はしない」のであろう。口でいくら「できるようになりたい」「うまくなりたい」と言っても、できるようになる人、うまくなる人はそんなこと言わずにやり始める人であって、口を動かす暇があったら手を動かしたほうがよい。頭で分かっていてもどうしても手を動かせない、という人もいるし気持ちはよく分かるが、そこは自分で乗り越えてもらうしかないのだ。

「成功の反対は失敗じゃない、挑戦しないことだ」という言葉がある。失敗するのが嫌でやりたくないのかもしれないが、Fail fast, fail often. というソフトウェア開発における標語の通り、最初から完璧を目指さずとにかくすばやく何度も挑戦することで、段々分かってくるのだと思う。

夜は翌日のコース会議の議事次第と配布資料の印刷。今年度のコース会議もあと数回で終了かと思うと感慨深いものであるが、まだ着任して1年目でこれから何が控えているか不明なので、油断せずあまり負荷を上げすぎないように気をつけよう……。