東大駒場で学ばなかった教養というもの

どこかに出かけようかと思ったが、結局一日ずっと家にいた。9連休だったが、一番遠くまで遊びに行ったのが (当初の目的だった映画も見られなかった) 吉祥寺だという……。

最近続けて駒場に行くことがあったので、「教養の力--東大駒場で学ぶこと」を読む。

東大は入学した全員がまず教養学部に入学し、2年生で「進学振り分け」という選抜があり、3年生に上がる段階で文学部、理学部などの個別の学部に進むというシステムである。そして、医学部や工学部に混じって教養学部も進学先に入っており、酔狂な若干名がずっと駒場にいることを選ぶ、という塩梅で、自分も教養学部に進学し、都合7年間駒場にいた (そういうわけで赤門に行ったのは卒業してからのほうが多い) ので、「教養とはなんぞや」ということに興味があるのである。

ただ、やはりこの本を読んでも人文系の視点に偏っていて、これを教養と呼ぶのはちょっと抵抗がある。たとえば「線形代数演習 (表現はうろ覚え)」はどうがんばっても教養ではない、という言及があるのだが、理科系の「教養」は講義以外にも演習や実習をしないと身に付けたとは言い難いし (そもそも文科系でも自分がいたシドニー大学は哲学でも言語学でも必ず「チュートリアル」という名前の演習がセットだったのだが)、線形代数は基礎の基礎で、人文系で言えば「外国語コミュニケーション入門」みたいな感じだと思うのだが、そちらが教養でこちらがそうではない、というのは無理があるような……。

もちろん筆者の意図としては「教養ではどうがんばっても見なされない例」を挙げたかっただけなので、揚げ足取りかもしれないが、これがそういう例として出されるというのはそこで言われている (筆者が思う) 教養ってなんなんだろう、と思うのである。

教養学部生として教養について思うのは、教養とは分野を超えた知識と深い洞察力を持ち、かつ現実の行動に結びつけて人を動かすことができる力のことである。駒場には優秀な人が多かったので、一見教養がありそうな人はいるのだが、知識はあるけど細かい断片的なことばかり詳しく見通す力がなかったり、あるいは先見性はあるのだけど他人を説得することができなかったり、あまり大学として (自分の考える意味における) 教養のある人を育成することには成功していないと思う (自分の学生時代も例外ではない) し、そういう能力はどちらかというと大学を出たところで涵養されている気がする。

自分もなんの因果か大学教員になったので、自分の考える教養が身に付くような学生生活を送る手助けができればいいなと思うのである。(だからこそ、研究室の学生にはインターンに行くことを勧めたり、お金はあげられないが仕事は紹介できるので、研究や開発のアルバイトを紹介したりしている)