曲がりくねった長い人生の n-best

午前中は共同研究ミーティング。年度が替わるところなので、いろいろある。思いがけないところで2つの研究テーマが関係していたり。毎回この共同研究のあとの時間は松本先生との雑談タイムになっている気がするが (笑)

午後は PC サポート。以前からちょくちょくこちらにお越しになっている阪大の日本語の先生。こうやって使ってもらう人がいるというのはいいことで、「難しすぎて使えない」ということも直接言ってくれるのはありがたい。どこがどう難しくて使えないのか、というのが言えるとそれは相当すでに分かっている人かもしれないが、「難しい」と感じることができるだけ減るようにしたいなとは思っている。(こういうふうに近くに聞ける人がいる、というのも一つのサポート)

言われて気がついたが、学振採用内定の人はそろそろ科研費の申請時期か。学振の特別研究員の場合、研究費はすでに内定しているので落ちることはないが、多少金額が変わったりすることもあるし、ちゃんと書いておくに越したことはない。自分のようにサンプルとして知り合いに渡すにしても、変なものを買っていたら渡しにくいものがあるので (笑)

修論シーズンが終わってから紹介しようと思っていたが、@lilaclogさんの私が人生の進路変更をした本当の理由は、それぞれの時点での葛藤や決意が伝わってきて、いい文章である。

[...]本業である勉強や研究はほとんど進まず、自分の研究者としての能力を何度も疑った。
研究者になりたい自分にとって企画運営やプレゼンの能力よりも、研究を進める力が欲しかった。
見つけた研究テーマも、研究室の方向性と合わないから、という理由で何度か教授に却下された。
修士2年半ばには妥協してテーマを見つけ、それなりに没頭して研究も進め、100ページを超える修士論文を英語で何とか書き上げた。
そして博士課程に進学した。
この頃が一番つらかった。
学科には、それなりに成果も出しているのに、ポストにつけないままに35歳を過ぎ、先のポストが無いポスドクの先輩が何人もいた。
「大学院重点化」および「ポスドク1万人計画」の第一世代だ。
研究が進まずにうつ病状態の友人や、自害する先輩・後輩すらいた。
これが日本の最高学府で、最も優秀だといわれる人たちが行く分野なのかと思った。
もちろんそんな状況でも、才能を世界に羽ばたかせたり、若いのに助手になったり、優秀な学生はたくさんいた。
私の周囲は皆優しく、研究室は楽しかったが、私は妥協した研究テーマ自体に既に興味を失っており、家に帰れば、病気の母がいるだけだった。

こんな状況で、苦労だけさせた母に申し訳ないと思った。

たぶん博士課程に進学する人は、多かれ少なかれ妥協するところもあるだろうし(進学しなくてもそうだが)、先が見えず苦しいこともあるのだろうが、人生「これは自分の道じゃない」と思ったところから方向転換すれば、割合なんとかなるものだと感じる。

しかし、科学者を辞めるという決断をした頃は、たくさんの人に反対もされ、悩みもあった。
新しい仕事で辛いときは、本当に科学者辞めてこっちに来て良かったのか、と思ったこともあった。
その度に、自分に余り適性がない学者を目指していたころの絶望感を思い出して、「今ここで頑張るしかないだろう、今ここで死んでも後悔はしない選択をしたはずだ。賽は投げられたのだから」と自分に言い聞かせた。

いまの状況が苦しい人はたぶん苦しいのも現実で、それを変えていくためのアクションをどこかで取る、つまり「ここまでの自分と一回お別れしよう、これからの自分は違う自分になろう」と決意するターニングポイントが、そういう人には必要なのかなと思う。

公共事業もそうだけど、人間なにかを始めるより止めるほうが難しく、止めるときの引き際で人間性が出てくる。だからこそ、ちゃんと辞める決心をする、というのは重要なことであり、辞めるエネルギーを別の活動に活かすことができる、というのは強靭な精神力が必要なのだと思った。

自分はなりゆき任せのところがあるからどうだろうな〜。自分の典型的な行動パターンは、選択肢を3つに絞っておいて、あとはサイコロを振る、というか流れに身を任せる、という感じ。たぶん直観的に「こっちに行きたい」と思っているほうにバイアスがかかってそちらに動いて行くのだろうけど、それでよい。常に自分の思ったように行かないと嫌、というのを「人生の1-best」と呼ぶとすると、自分は自分の予想した上位n位以内に入っていれば不満はない(予想もしない展開も楽しめる)、という「人生のn-best」を提案したい (笑) パートナーの意見によって n-best のリランキングあり。たぶんちょっとだけロバスト。そのうち子どもも含めた合議制のアルゴリズムになるのだろうか、どうだろうか……。