哲学の話と自分はなぜ NAIST を受験することにしたか

土曜日の「日本酒を愛でる会」で yasuhiro-r くんと yuta-h くんと哲学の話をしたのだが、自分にとってはだいぶ昔の話のようで、確かにこういう問題をいつも考えていたころもあったな、と思ったり。

自分は中学生のころから哲学書を読むのは好きだったし、そういうのをまとめて解説したりするのは自分でも得意かなと思っていたのだけど、哲学するってのは哲学の本を読むことではなく、自分の頭で自分にとって重要な問題を徹底的に考えることなんだな、と気がついてから、そもそもそういう重要な問題があるわけでもないのに哲学青年を気取って哲学書を読むことを恥じ、それからしばらく遠のいたのであった。

そういう意味では自分のターニングポイントになった本は

哲学の教科書 (講談社学術文庫)

哲学の教科書 (講談社学術文庫)

である(本当はこれの前に出た単行本版のほうだが)。同書にも

私の考えでは、哲学とはもう少し病気に近いもの、凶暴性・危険性・反社会性を濃厚に含みもつものです。人を殺してなぜ悪いか、人類が宇宙に存在することに何らかの意味があるのか、どんなに一生懸命生きていても私は結局死んでしまう……という呟きをまっこうから受けとめるものです。

とあるのだが、確かに哲学書を嬉々として自分は読んでいたのだが、そこで繰り返されている問題に自分はほとんど共感できなかった。単にロジックとしてそういうものを突き詰めて行く、論駁していく楽しさは自分にあったのだが、はっきりいって「反論のための反論」のような、血の通っていないゲームのような議論を高校生のころはしていたと思うし、いま考えても若気の至りだった。逆に言うと、この本を読んで(自分でも考えたが)思った一つの結論としては、「自分そこまで病気ではない」というものであり、本当に哲学をする人が、気が狂いながら哲学するのを見ていると、これは自分には無理だ、と思ったのである。

そういうわけで、自分の頭で考えて哲学するのは自分には向いていないし、そもそもやりたいことでもない、と思い、哲学書を読むだけなら仕事じゃなくて趣味でいいや、と思って情報系に来たのであった。論文も、別に哲学なら大学で哲学の研究者でなくても書けるし、自然言語処理は大学や企業で研究者として所属していないと書けない、といった違いがある。

一応補足すると、哲学書を読んだ経験が無駄だったかというと、遥か昔から現在の社会で議論されているようなことが問題になっていたり、どのような問題が人間に取って重要な問題なのかといったことが分かったり、いまの自分の血肉にはなっているし、そういう背景を知った上で自然言語処理の研究をするのは重要なことだとも思う。

自分は7年間学部生をやっていたのだが、最初の数年は哲学をやりたくて大学に入ったけど哲学は自分のやるべきことではなかった、と思ってふらふらしていて、じゃあ今後どうしよう、と思ったとき、自分にとって死ぬまでに明らかにしたいものはなんだったか、とぐるぐる考えてみると、昔から自分の関心の中心にあったのは言語だったので、それならことばの研究をしよう、と考えたのである。

そして、最近では実際のデータ(テキスト)から浮かび上がる意味というものにコンピュータの側から迫ってみよう、という動機で研究をしている。人間が一生のうちに目にするテキストからすると不可能なくらい大規模なデータを計算機は処理することができるのだが、そこで生まれてくる意味というのはなんなのか、それは人間が認識しているものと同じなのか違うのか、そのあたりが死ぬまでに明らかになってくればいいなぁ、と思うのだ。

文系の話に戻ると、最近出た「文学研究という不幸」

文学研究という不幸 (ベスト新書 264)

文学研究という不幸 (ベスト新書 264)

は東大の文系学部の暴露話をいろいろ書いていて、最初おもしろいかなと思ったのだが、読んでいると他人の悪口ばかりでいろいろ気分が悪くなってきて、こんなこと書いている暇あったらもっと誰かをしあわせにすることすればいいのに、と心底思った。
とはいえ、自分があのまま哲学青年していたら、自分もこういう人になっていたことは想像に難くない(し、容易に想像できる)ので、あまり人のことは言えない。そもそも酒の席で話すような内容をこうやって文章にして恨みつらみを書くというのも趣味がよくないが、こういう文章でも読みたい人もいるのだろう。
よくも悪くもこの本は典型的な(文3の)東大生が書いているな、という感じなので、そういうワールドを知りたい人は読んでみては。なんで自分が東大に進学するのを止めて NAIST に来ることにしたのか、この本を読んでもらえれば分かると思う。(と、今日受験生の小論文を添削していて感じた)