昨日B4の人にNAISTに来てから感じたことについて話していて思ったのだが、やはり大学院生の生活にはそれまでの学生生活との間にギャップがあるように思う。
それは、一言で言えば産みの苦しみなのだが、違う観点から言うと、ツールを使うだけの人からツールを作る人に脱皮する、ということでもある。(自然言語処理だと、「ツール」のところが「コーパス」とか「辞書」とかでもよい)
中田さんのFLOSS活動 : 自分は何をやりたいかを設定して、孤独感にたえられるか。を読んで、確かにそうだなーと改めて感じる。研究でも同じで、オリジナルな仕事は誰もやっていないので、孤独感に耐えなければならない。「こんなツールを使ってこんな結果が出ました」という話で修士を卒業するのはいいのだが、博士の学生の仕事となると世の中の誰もやっていないことをやらないといけないので、これは割としんどい。「OSS活動に興味があります」という学生でも、ほとんどの場合Linuxをインストールして使っているくらいで、自分で(他の誰かのための)プログラムを書いて公開している人、となると、一気に数が減る。でも、そこがそれまでの学生生活とそれからの学生生活を分ける分水嶺であり、とにかくアウトプットすることが重要なのである。
いつも「研究者は小説家の仕事と同じような仕事である」と言っているのだが、ちょうどアニメ化を果たした「伝説の勇者の伝説」の鏡貴也さんにインタビュー、小説家になるコツや執筆スタイルを大公開という記事を見て、そうそう、こんな感じ、と思った。少し引用。
ガタガタ震えるぐらいまで締切が近づかないと、書き始めないです。ベッドや部屋の隅で震えて1日が終わることの繰り返し。机に座ってみても書けないんですよ。
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どう書くか考えているか、もしくは「どうして書けないんだろう」と震えているかで。毎回「面白いもの書いてくださいね」と言われるんですが、「誰が面白いって決めるんだよ。みんなそう言うけどさー」とか、一人でぐちぐち言ってます。「もうやだー」とか。それから、思いついたことを書いてみても、「やっぱり面白くねー」と思ってやめたりして。なぜかインターネットに続きがあるんじゃないかと思って、検索してから「載ってるわけねー」と気付いたり、といった感じで結構長い期間書けないですね。
最後の「なぜかインターネットに続きがあるんじゃないかと思って、検索してから「載ってるわけねー」と気付いたり」なんてのは、サーベイを十分してから実装をしているはずなのに、始めたら予想外にプログラミングが大変だったりして、「これは誰かが書いて公開してるんじゃない?」と思って検索したりとか、「このネタどっかの国際会議で発表されているんじゃない?」と思って検索したりとか、「そうだよねー」という感じである……。
誰かがやっていてくれたらそれを使えばよい(産みの苦しみはない)という意味では楽なのだが、そうしたらそのネタは新規性がなく自分の論文には書けなくなるというだけで、他の部分で苦しまなければならないわけで、すでに存在するものをもう一度自分で作り直す必要はないが、研究だとどこにもないものを作らなければならないわけで、どこかで観念して「真にオリジナル」な部分を書き始めるしかないのである。この部分、やったことない学生が面倒なことから逃げたくなる気持ちも分かるのだが、何回も経験しているはずの研究者だってできれば避けて通りたいものなのだ(笑) でも、産み落としたあとの気持ちよさは一度知るとやめられないというか、これは好きな人は好きなのだろうな、と思う。
あと、末尾に「小説家になるためのアドバイス」として
まずは「書き上げること」ですね。最初の頃は難しくて書き上げずにやめてしまったりするんですが、まずは下手でも300枚書き上げて応募してしまうことです。「わー、つまんねー、これだめかもー」と思っても、まずは応募すること。釣り竿を投げないと釣れませんから。
あと、プロになれるレベルに達したのかどうかは自分ではわからないので、「書き上げる」「出す」の繰り返しです。出すと決めていないと、100枚くらいでやめたくなるんですよ。もっと面白いことを思いついたとか、やめたくなる理由がいろいろと出てくるんです。なのでとりあえず書き上げて応募してみることが一番だと思います。あと応募までの締め切りを決めて書き上げることです。作家になってからは書き上がらないから本を出さないというのは許されませんから。書き上げる日を決めて送ることの繰り返しが大事だと思います。
と書かれているが、昨日の日記にも書いたように、とにかく応募してみることである。とかくもっともらしい理由(忙しくて時間が取れない、今の実力じゃ出しても絶対落ちる、来年出そうと思っている、etc)をつけて応募しない人が世の中には本当に多いのである。明らかに未完成のものを出せ、というのではないが、ひとまず誰かに見せても失礼に当たらない(恥ずかしい、のはOK)程度のクオリティにして、出してみるしかない。卵が先か鶏が先かの話になるのだが、実力がないと通らない、と言うのはある程度真だが、通らないと実力がつかない、という事実もあり、どこかで思いきってジャンプするしかないのである。運が良ければサイクルに乗れるし、運が悪ければサイクルに乗れないだけで、また挑戦すればいい。どこかで引っかかればいいだけで、失敗して命が取られるわけでなし、真剣に取り組んだものを出せばいいのに、といつも思う。
思うに、出したいと言っているのに出さない人は(もちろん事情はさまざまあるのだろうが)、落ちる自分を認めるのが怖いということかなとも思う。自分もシドニー大学に留学するまではそうだった。東大生は、一番が好きなので、自分も最初は(研究的には有名でない)オーストラリアではなくアメリカに、特に UC Berkeley に行きたかったのだが、2回出して2回とも落ちて、結局3回目の挑戦で今度はオーストラリアへの交換留学に出してみて、それでシドニー大学に行ったことで人生開けたのである。そこで学んだのは、他人が見て行きたいところに行くのがしあわせなのではなく、自分が行きたいところに行くのがしあわせなんだな、ということ。
奈良に来る前、友人からこんなことを言われたことがある。「あなたは口では「自分はたいしたことない」と分かったふうなことを言うけど、本当は自分のことすごいと思っているでしょう。顔に出ているよ。そんなちっぽけな自分にしがみついて、他の人を下に見て、ひどいね。そんなあなたは捨てたほうがいいよ。捨てられないならかわいそうだね。でもあなたがやるしかないんだよ。あなたのことを救えるのは、あなたしかいないんだよ」 言われたときはよく理解できていなかったが、この前ふと目にすることがあって思い出した。それまで成功してきた(と自分が思っている)自分をどれだけ捨てられるか、というのは、苦しい経験だとは思うが、挑戦に値することだと思う。