学閥社会の中で切磋琢磨するニッポンの科学者たち

Amazon でお薦めされたので

を買って読んでみた。2004年の本なので日本に関する話題は若干古い(たとえば助教や准教授の話はない)が、アメリカの話は参考になる。アメリカで実際に使われた研究計画書のコピー(さすがに名前のところは黒塗りされているが)が掲載されていたり。奈良先端大でも「科研費説明会」なるものに行くと「受かる研究計画書はこんなのです」と講師(たいてい科研費の審査委員も務めたことがある)が過去に使った研究計画書を配ってくれたりもするのだが、実際受かった計画書を見られるのは助かる。

内容自体は最近研究者の生活について調べていたのでそこまで目新しいものはなかったが、1冊でまとまっているので、こういう内容に興味があり、まだそんなに詳しく調べていない人(博士後期課程に進むかどうか迷っている人とか、実際博士後期課程だが今後不安な人とか)は参考になるかも?

個人的に「なるほどなぁ」と思った話は、アメリカは日本も真っ青のスーパー学歴社会だが、日本は学歴社会じゃなくて学閥社会なので、博士号を持っているかどうかはそんなに重要ではなく、どの大学を出たのか(時には最終学歴ではなく学部の学校だったり、ひどい場合には「地頭」がいいからと出身高校名だったり)が重視される、という話。確かにその通り。アメリカでは仕事をする際学歴が非常に重要なので、いったん働いたあと学校に戻ることも一般的だったり、博士号を取るのにとてもがんばったり、修士課程と博士前期課程が厳密に区別されていたりとするのだが、日本は学閥社会なのでそういうふうにはならないだろう、という指摘。

そこから「だから日本も学歴社会にするべきだ」という結論になるところは無邪気に同意はしかねるが、昨今騒がれている事業仕分けで博士号取得者がまるでニートであるかのように思われているのを見ると、学閥社会だったらそう思われても仕方ないのかもなぁ、と思ったりする。逆に言うと、ここまで学閥社会であるにもかかわらず、こんなに日本が物質的には繁栄しているのは、別に日本は科学技術にそんなに注力しなくても大丈夫なのかもしれない、と成功している要因を別のところに求めたくなる。

自分としては学部と大学院で大学を変えたり、大学院から助教(もしくはポスドク研究員)になるときに大学を変えたり、もっと日本の大学も流動性が高くなったほうがいいと思うので、その障害になるという意味で学閥には反対なのだが、学閥を解体しようと思ったらまずどこから手をつけるべきなのだろうか。うーむ。