新自由主義者は捨て猫を拾わない

今日は年に1回(今年は2回だそうだが)の法定停電。研究室の計算機係のみなさんはこのタイミングに合わせて更新したりとがんばっているようだが、自分は2年前に引退して現在は広報(ウェブ・オープンキャンパス)係なので、なんとなく静観。

というわけで何冊か本を読んだので紹介(4冊読んだのだが外れが多かった……)。

ぼくらの頭脳の鍛え方 (文春新書)

ぼくらの頭脳の鍛え方 (文春新書)

昔は立花隆の本が出たら割と買っていたのだが、最近はあまり買わなくなったなー、と思って手に取った。立花隆のスタンスとしては「古典は必要以上に読むな、最近の科学技術書を読め」というもので、確かに最近自分も周囲もあまり古典や小説は読まず、新書や専門書を読んでいる気がする。何個か断片的なトピックを書き記す。

  • これまで学校教育ではインプットを重視してきたが、段々アウトプットを重視するようになってきた。そして、インターネットの時代となった最近は、スループットが重要である。入力も高速に、そして出力も高速に。
  • 昔はコーヒーショップに集まって勉強会や議論をしたりする伝統があった。情報共有や交換をする階級の人を復活させる必要がある。役に立つ内容なら集まるが、役に立たない内容(たとえば哲学とか)なら誰も集まらない。とはいえ、そういう階級の復活も、役に立つ内容で人を集めるところから始めないと、長続きしないだろう。

そういえば自分も最近俗物化しているなーと思う。教養というのは、知の全体像を把握する能力のことだと思うのだが、どんどんタコツボに入っていってしまい、俯瞰的に見られなくなっているように思う。望んでそうしているわけだが……(学部時代までずっと一つのことに特化しないように気をつけて生きていたが、大学院に来る段階で、なにか一つを掘り下げてみようと思って自然言語処理を選んだ)

世界は分けてもわからない (講談社現代新書)

世界は分けてもわからない (講談社現代新書)

生物と無生物のあいだ」もアメリカに留学したポスドク物語として読むと面白いのだが、これは彼のそういうエッセイ的な部分を抜き書きしたもので、結論から言うと、とってもつまらない。地の文の端々にエッセイ的なものがあるから面白いのであって、全部エッセイだと言葉遊びにしかなっていない(タイトルからして明らかだが……)。

とはいえ、8章から12章までは「スペクター事件」と呼ばれる科学史における有名な捏造事件を描いた文章で、ここの部分はおもしろい。科学ジャーナリストとしての腕は非常に確かなように思う。この部分だけで1冊書けばよかったのに……。ただ、この「スペクター事件」について知りたいなら、

背信の科学者たち―論文捏造、データ改ざんはなぜ繰り返されるのか (ブルーバックス)

背信の科学者たち―論文捏造、データ改ざんはなぜ繰り返されるのか (ブルーバックス)

のほうがいいと思う。毎回の〆切に追われて書いたんだったら仕方ないと思うが、1冊の本になってしまうと、そういう個々の事情は読者から隠されてしまうし、もう少し考えて前半部分で1冊、後半部分で1冊にして、論文捏造の話をもっと書いてくれればよかったと思うのだけどなぁ。