弟(陸上100メートルの選手)が昨日から必死になって見ているのでつき合って見る。
男子100メートルの2次予選、第2レースで波乱があった。
これまでは1人1回はフライング OK (同じ人が2回フライングしたら失格)だったのが、去年から、誰かがフライングしたら次フライングした人は(その人は初めてのフライングであっても)即失格、という制度に変わったらしく、フライング2回でアメリカ人の選手が1人失格になったのだ。
ビデオを見るとどう見てもその人は出ていないし、本人もまさか自分がフライングのわけがない、スタートしてなかったのに、と猛然と抗議。もう引退間際で次があるかどうか分からない選手であり、今回の大会ではメダルも狙える位置にあるだけに、やり切れない表情で自分が走るはずだったトラックに寝転がって動かなかったり。
それもそのはずで、どうも人間はスタートの音を聞いてから0.1秒以内には反応できるはずがない、という実験結果を元に、スタートしたかどうかの反応速度を測定する機械でフライングの計測をしているのだが、弟の話によるとこれは足の部分にちょっと圧力がかかっただけで反応したと判定されてしまうので、体を飛び出す前に足に力を入れてしまう選手だと早く反応したと判定されてしまうことがあるらしい。今回のケースも、本人は体を出したときがスタートだと思っているはずだが、無意識のうちに足を硬直させてしまったのだろう(だからビデオにも出てこない)、ということだ。
本人は絶対に自分はフライングしていない、という表情でいたのだが、もう判定は覆らない、と諦めたのか、トラックを離れる。すると同じレースを走る他の選手や外で見ている選手からは拍手が起き、そのまま勇退するのかと思わせたが、帰る途中で顔がゆがみ、泣き出しそうになったところで180度向きを変えてまたトラックに戻っていく。どうしても納得がいかなかったのだろう、記録に残らなくてもいいからオープン参加という形で同じレーンで走らせてほしい(1着になっても当然上には進めない)、と参加委員会と聴衆にアピールしたのだ。
これには参加委員ももめ、一旦予選3組と4組のレースを先にやり、その間に対応を協議することにしたらしい。それで、2組目のレースが始まる段になると、件の選手の姿はない。やはり世界陸上という体面があってか、測定器でクロと出たら判定を覆すことはできないらしい。
すると今度は本人ではなく聴衆がこれを許さず、残りの選手がスタートラインに立ってスターティングポジションを取ろうとするとブーイングの嵐。選手たちはこんなことをされると集中力がなくなるのでスタートできず、また一からやり直すことになる。レーンにいる選手たちだけでなく、次にレーンを使うことになっている女子100メートル決勝の選手までが両手を合わせて「静かにしてくれ」と聴衆にアピールするのだが、聴衆は全く聞く耳を持たず、毎回選手がスタートラインに立って腰を落とし、いざかけ声をかける、というときに決まってブーイング、ということを7回ほど繰り返す。
結局最後にはブーイングの中強引にスタートさせたのだが、今季世界最高記録を持つ選手が予選を通過できなかったり、1着で入った選手もインタビューに応じなかったり、かなり荒れに荒れた。
このハプニングには問題がいくつかあって、まずフライングが2回即失格制に変わったことが挙げられる。これは1人2回までフライングを許すと、誰も退場にならなくても最大8回までフライングが可能なことになり、その分競技時間が延びる、もしくは不確定になってしまい、恐らく番組のスポンサーもしくはテレビ局がそれを嫌ったのではなかろうか。フライング1レース2回即失格にするとフライングの数は格段に減り、競技の時間は短縮できるし終了時刻の予測も立てやすくなるので番組の編成が簡単になるとか、フライングしたら次やり直すまでの時間があまりないので CM が入れられないが、レースとレースの間であれば時間はある程度あるので CM を入れることができる、とか、そういった商業的な理由でルールを変更せよとの圧力がかかった、と考えるのは難しくない。
次に、電子測定機の盲信という問題点がある。なるほどタイムの測定は手動で計ると人間の計測には誤差がつきもので、手動で計るとだいたい電子時計より0.1から0.2秒速いタイムが出てしまうらしく、10000メートルやマラソンならまだしも、0.01秒でしのぎを削っているような100メートルでは、正確なタイムを計る電子時計の進歩は大きな貢献をしたであろう。
しかしながら、電子測定機を使用してフライングの判定をするとなると、これは少し話が違う。電子測定機では、上に書いたように人間なら誰でも0.1 秒以内には反応ができない、というような仮定に基づいてフライングの判定をするものであって個体差を無視しており、また、無意識に動かしてしまった動きまで拾ってしまい、体は出ていないのに出たと判定される、ということがある。一般常識としてはスタートするというのは体が前に出ることであって、このような機器の導入はスタートの定義を筋肉の反応という別のもので置き換えることになり、このすり替えが一般人、さらには競技者の感覚からもずれているために問題が起こる。
100メートルのフィニッシュでもつれて1着と2着の判定が微妙で、なぜ2着になったのか分からない、と抗議するとき、フィニッシュの瞬間の写真を持ってこられて、ここでつまようじ1本分遅いから2着なのだよ、と言われたら誰しも納得するだろうが、フライングしたのはあなたの筋肉が音がしてから0.052秒で反応しているとこの機械が言っていて、これは人間では起こりえないからフライングなんだ、と言われても納得できない人はいるだろう。走ったあとの判定に使うならともかく、走る権利を奪うようなフライングの判定にこのような納得が行かない判定方法を使うのはおかしいのではないか。いくら測定技術が発達したとはいえ、普通の感覚から外れたような結果を返す機械に判断を全面的に委ねるのはやりすぎで、せめて参考材料に使うに留めることはできないのか、と思う。
最後に、観客がブーイングした点については、最初自分は心情的には理解していたつもりだったが、弟が「もう判定は覆らないんだからちゃんと走らせろ、一番かわいそうなのはここで走らせてもらえないあの選手たちだ」と言っていたのを聞いて、少し考えが変わった。
彼によると、大会当局の判断に抗議するのであれば(競技が遅れた)30分間ずっとブーイングすべきであり、それなら競技者もそもそもスタートの位置につかないので集中力も消耗せず、まだ分かるのだが、競技者が集中しているところでブーイングするのは競技を邪魔するためだけにやっているのであって、自分の精神と肉体と命を削って競技に打ち込み、走りたくて集中しようとしているのに、それを毎回邪魔されるのは血の涙を飲むほどつらいことなのだ、というのだ。あれでは失格になった人は走れないだけ損をし、残った人も結局は不本意な走りをせざるをえず、聴衆が加害者で(走れなかった人だけでなく走った人も、そして30分断続的なブーイングで競技が延び、競技が始まる時間に合わせてウォーミングアップをしていたのが体が冷えてしまう女子100メートルや他の競技の参加者も)競技者全員が被害者だと。
あまりスポーツをする性格ではないし、勝ち負けのある競技といえば一応将棋をやっていたので、コンディションが悪くても勝たないと意味がないと思ってしまうのだが、タイムという絶対的な基準がある競技では、相手に勝つことだけが全てではない(たぶんこのハプニングも世界記録を残した訳でもないので10年も経てば忘れ去られてしまうだろう)という事情があり、ただただ後味が悪かった。