プレゼンのやり方を見て真似をする

今日は在宅勤務。明日から上の子の小学校はオンライン授業になるらしい。

朝は大学院のプロジェクト演習のミーティング。今日で最終発表会のスライドの統合確認の予定だったが、個々のグループごとに作ってきていたので、統合確認は来週することに。とはいえ、スライドそれぞれについてちゃんとコメントできたので、これはこれでよかった。プレゼンテーションの仕方についての授業みたいなのって、ないのかな。仕方ないのかもしれないが、どうも研究室(研究グループ)ごとに指導の差が大き過ぎる気がする。

午前中は土曜日に引き続き会計処理をしたあと、3回目の研究室公開。結局1人だけ話すことができた。今年度は仮配属された研究室からみんなほとんど動かないのかなぁと思ったりする。うちに仮配属された学生が他の研究室の説明会に行っているのかどうか分からないが、昨年度はうちの研究室の配属説明会には、もっとたくさん見学に来ていたし、実際にうちの研究室を含めて結構移動があったのであるが。

昼からは研究会。今日は大学院の公開期末評価の発表練習をすることになっていて、途中休憩を5分ほど挟んだが3時間強。人数が多いと8分の口頭発表の練習をするのでも結構大変だが、今年は岡さんが色々コメントしてくれるので大変助かる(自分だともうずっと話を聞いているので、なんとなく分かってしまうため)。

そういえば大学院生を持ち始めた当初、公開期末評価の練習をしておらず(どうせ自分は公開期末評価の時間に聞くから、というのが理由)、結果的に公開期末評価の時にグダグダになることがあったので、研究室内でも毎学期やることにしたのだが、これによって学生も研究室の他のメンバーがどういうことをしているのかを半年に1回は聞くことができるようになり、かつ他の人のプレゼンテーションの仕方を知ることができるようになって他山の石にできるようになり、割といい感じになっている。

以前はこれをしていなかったので、グループが違う人の研究内容を知らないことがあり、全員どんなことやっているのか聞きたい、という声が上がったことがあるのだが、この公開期末評価の発表練習をするようになってからそれは解消されたように思う。研究室によっては、同じ研究室の学生の公開期末評価に出るように、と出席を義務付けている研究室もあるようで、それはそれで同じような意味合いがあるのかもしれないが、まあ研究室内でやればいいかな……。NAIST では他研究室の修論の中間発表にもそこそこ出ないと修了に必要な単位が揃わず、近くの研究室の友人の研究発表を聞きに行ったりして、それはそれで有意義な時間ではあったのだが、単位化したりしないと、時間がもったいないように思う。

夕方は都立大で新しく始まったフェローシップの説明会に出る。うちの研究室の D2 の学生が採用され、今年度の残り3ヶ月および来年度1年間、学振と同程度の待遇がもらえるので、助かる(うちの研究室では、後輩の面倒も見てくれる場合、学振やフェローシップとは別に追加で RA のお給料も出しているけど)。

学振と同様に研究費もついてくるのはありがたいのであるが、研究費の使い方を知らない学生に研究費の使い方を教えるのは指導教員に丸投げで、ちょっとこれは微妙な気がする(分野ごとに色々な考え方があるので仕方ないとは思うが)。確かに学生の頃から研究費の使い方を知るのは、(日本の)大学に就職する場合にはとても意味があるのでいい(教育効果はある)のだが、ほとんどの学生は(日本の)大学に就職するわけではないので、研究費の使い方を教える時間が手間に見合っていない気がするのだが……。

自分は NAIST にいたとき特待生として採用してもらい、研究費もくれたのであるが、事務処理関係は(研究室の秘書さんと)特待生専門の職員さんがいたので、色々教えてもらえたのはとてもありがたかった。本学では全般的にこのあたりの事務コストを低めに見積もることが多く、大体教員に丸投げするので、想定内といえば想定内ではある。事務職員を雇えばいいという話になるかといえば、それならその分教員減らしていいですねと言われて同意する教員はいなさそうなので、これ以上は仕方なさそう。

解決策としては、もう少し教員の採用の仕方を変えて、分野を広く浅くカバーする教員を取り揃えるのではなく、同じ国際会議に投稿する(国内なら同じ研究会に出る)くらいの近さの分野でグループが作れるように教員を取って、学生指導や秘書さんとかを共同で行えるようにした方がいいんじゃないかな。昔は小講座制でそれが可能であったのが、大講座制で解体されたというのは分かるのだが、研究的にも事務処理的にもオーバーヘッドが大きいので……(学部教育は、自分の専門にピッタリ合致しないような科目を担当しないといけなくなる可能性が上がるので、そちらにはオーバーヘッドがあるのだが、それは教育だということで諦めてもらうとして。)。