3月頭に南大沢で日曜日の開催された教授会の振替休暇を取ってみる。といっても大学に出勤しないだけで、午前中は兼業先に行ってお仕事。そのまま外でずっとノマド的に仕事していたので、単に通勤の移動時間が短くなっただけである。
関連して(?)『「文系学部廃止」の衝撃』を読む。
- 作者: 吉見俊哉
- 出版社/メーカー: 集英社
- 発売日: 2016/02/17
- メディア: 新書
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本書は各章にそれぞれ見所があるのだが、自分がこの本を評価するポイントを挙げると以下の点である。
- 「文系学部廃止」自体は突然出てきたものではない、という経緯を適切に説明。問題なのは文系軽視ではなく、大学軽視であるという指摘。
- 「文系学部廃止」に反応する人たちが、教養軽視と文系軽視を(意図的ではないにせよ)混同していることを指摘。教養が必要と言うなら数学や自然科学も(人文系の学生にも)学ばせるべき、という話。
- 日本の大学はそもそも学部で完結するようにデザインされていて、大学院は研究者になる人のみが行くはずだったのに、大学院重点化でアメリカのような大学院モデルが接合されてしまった(そもそもアメリカの学部教育は日本の高校および学部1-2年生相当で、日本は学部3-4年でアメリカで言えば修士相当のことをしていた)のが問題、という指摘。
- 大きな大学、小さな大学、総合大学、単科大学、東京の大学、地方の大学、といったようなケースで、それぞれどのようにすれば生き残れそうか、というような典型モデルを提案。(それが正しいかどうかは別にして、検証あるいは反証可能)
- 東大のいわゆる文系の学部で教鞭をとる研究者として、入学してくる学生に合わせてどのように授業やゼミを作り変えてきたか、なぜそれが必要だったか、という実例とその根拠をいくつか紹介。
特に自分がこの本を読む前と読んだ後で認識が変わった大きな点としては、自分は人文系の学問分野は(長期的にでさえ)「役に立つ」などと言うとむしろ工学や医学系の実学と同じ土俵に立ってしまい、それは本来人文系のあるべき姿ではないので、「役に立つ」などとは言わない方がいい、と思っていたのだが、本書は「(人)文系こそ積極的に「役に立つ」と言うべきだ」という論を展開していて、自分もその論に説得された。
というのも、工学に代表される実学は評価関数が決まっていて、その中で最適化を行うのは得意だが、評価関数自体の提案は苦手で、何をよいと考えるか、という問題こそいわゆる文系の出番であり、そこでは文系は実学よりはるかに「役に立つ」のである、というロジックである。アメリカの大学を中心に「ダブルメジャー(主専攻)」あるいは「マイナー(副専攻)」を履修できる制度があるが、例えば哲学は主専攻としては不人気かもしれないが、副専攻としては有力な候補だろうし、このように短期的に「役に立つ」学問と長期的に「役に立つ」学問を組み合わせて履修できるようにすればよい、という話は、なるほど、と思う。
あえて気になる点を挙げるとすると、かなりアメリカの教育システムに寄った説明をしているので、それが本当にいいかどうかは分からない。あと、多分この本は意見を変える柔軟性がある人は読むと「なるほど」と思うかもしれないが、すでに怒り心頭で考えを変える気がない人は読んでも納得しないかもしれない。が、少なくとも議論の叩き台として、現状の問題点とそれに対する案が書かれているので、批判を真っ向から受ける、という姿勢は素晴らしい(「文系学部解体」の方は、取りつく島もないので)。
そういえば、自分が学生のとき、駒場で野矢先生に「副専攻を作ってもらえませんかね」と掛け合ったのを思い出す。「まあそういうのもありますが、やりたいなら大学のお墨付きとか関係なく、勝手にやればいいんじゃないですか。別に単位がほしいわけじゃないでしょう」と、今考えれば至極もっともなご意見で却下された。今の学生は単位のキャップ制があるので取りたくても大学の単位としては認めてくれない、という問題があるのだが、それでも勉強したい、という人には制限を外してあげたりできないかなぁ。(まあ、単位は要らないからそれでも来たい、と言ってくれればいいのだが)
首都大もせっかく総合大学なので副専攻のような制度ができればいいのだが、システムデザイン学部は3年生から別キャンパスなので、大変やりにくいのが残念である。特に情報科学は様々な分野で重要な知識であり、哲学のようにいろんな専門の人が副専攻として履修してくれたりできると思うのだが、わざわざ日野まで来てもらうのは大変だし、こちらから南大沢に行くのも手間だし、如何ともし難い(汗)