「哲学入門」は哲学の教科書ではない

朝に起きて SEG 時代から懇意にしている世界史の増谷先生のお宅へ。先日来たとき傘を忘れてしまったのだが、放送大学の授業も終わったそうで6月の上旬から12月までご夫婦で海外に行かれるとのことで、日本を発つ前に、というわけで伺ったのである。

傘だけでなく娘に絵本までいただき、恐縮する。自分たちも定年後に夫婦で(子どもを置いて)どこかに出かけたりできるかな? 

昼から午後にかけては芝刈りをしたり、うつらうつらしたりして過ごす。なぜだか金曜日からやたらと眠いのである。週の後半は疲れが溜まるのだろうか。6月は1日も休日がないので、どこかで自主的に半休にする平日を作ったりしないと、体力が持たないかもしれない。

予備校時代から大学院に行くまでは、講義形式で先生の話を聞いたり教科書や入門書を読んだりするのが勉強だと思っていた(そのため授業によっては話を聞くくらいなら自分で本を読んだ方が速いと思っていたものが多々ある)が、大学院でみっちり勉強会に出て、こういう学び方もあるのか、と気付いたのであった。今思うと、高校生から予備校生にかけてのころは「教科書マニア」で、「○○入門」ばかり読み漁って分かった気になっていたものである。

結局入門書や教科書ばかり読んでいても、最先端のところには永遠に到達しないので、入門書や教科書がないところに早く到達して、自分で教科書を書くくらいのつもりで学ぶことが、勉強なのだと思う。もちろん、専門ではない分野外のことを手っ取り早く知るには定評のある教科書が優れたガイドになるので、全くその存在を否定するものではないが、ひとたび自分がその分野を専門にしようと思ったら、教科書をありがたがってはいけない、ということである。

と、ここまでが前振りで、「哲学入門」を読んでみた。

哲学入門 (ちくま新書)

哲学入門 (ちくま新書)

戸田山先生は駒場の授業で「知識の哲学」を教科書にしていた授業で野矢先生がお呼びしたことがあり、たいそう知的好奇心を刺激されたのを思い出す。(10年以上前のことだ)

この本は「哲学入門」と題しているが、哲学の概説書ではなく、「哲学する」ということの入門書であり、大変ユニークである。結局のところ、入門書というのは(効率的にその分野の知識をインプットするための)教科書だと思われがちだが、(苦心惨憺して考え抜いた自分なりの知識をアウトプットするための)ガイドブック、というものも広い意味での「入門」であり、意欲的な本ですばらしい。(たぶん、「◯◯入門」で読者が期待する内容とは異なる気がするが……)

自然言語処理入門」という本を書くにしても、よくあるのは形態素解析とか構文解析とか個々の要素技術を解説し、機械翻訳や文書要約、質問応答といった応用技術を解説する、というスタイルだが、そういう自然言語処理の技術を使う人向けのテキストではなく、自然言語処理の技術を作る人向けのテキストを書いてみたいな、と思うのであった。(ただし、恐らく読者の数が1桁は少ない、というか、2桁少ない可能性があるので、売れないだろうが……)

個人的に「あ、そういえば」と思ったのは第3章の「情報」という章で、完全に工学としての情報を学部3年生の「情報理論」という授業で教えているのだが、哲学としての情報もあったな、と(コルモゴロフ複雑性も、知ってはいるが、授業では教えていなかった)。戸田山先生は名古屋大学情報科学研究科所属(の専門は哲学の研究者)なのだが、「情報科学」とか「情報学」とか名乗るなら、こういう哲学的な内容も押さえないとねえ、と思うのであった。10年前は自分がこうやって「情報理論」を教えているとは、夢にも思っていなかったが……。

巻末の参考文献(とそれぞれに対する気の利いた紹介)も秀逸で、おもしろい。科哲同期の U 原が書いた(献本で送ってもらった)「実在論と知識の自然化」

も手放しで褒めちぎっており、みんな同世代もいい仕事をしているのだなと、やる気になる。NAIST にいたときは哲学の研究をするのは定年後でいいかな、と思っていたが、こういう本を読むと定年後と言わずいまのめり込んでしまいそうになるな〜。