研究の仕方を教えることでなにが教えられるか

実は昨日紹介した本よりこちらの本のほうが紹介したかった。

大学論──いかに教え、いかに学ぶか (講談社現代新書)

大学論──いかに教え、いかに学ぶか (講談社現代新書)

「新しい大学(学科)を作る」という話が詰まった一冊。題材は神戸芸術工科大学という新しい大学の漫画に関する学科を立ち上げるという話なのだが、自分が元々文系出身だったこともあり、民俗学専攻の筆者の学部時代の話もとてもおもしろい。とはいえ、やはり見所は「学部の4年間をどのように教えるか」。

筆者の答えは、まず1年目はどのように描くかをひたすら叩き込む。それも、細かい小手先の技術ではなく、ストーリーを持った作品を、そのように描く必然性を理解させて描く、というもの。次に、2年目はとにかくオリジナルなものを描かせる。1年目にオリジナルなものを作ることを封じられているので、みんな堰を切ったように描くらしい。そして、そこで一つ完成させてから、課題ではなく自分の作品を描かせる段階に入る。2年生の後半からの2.5年は、ひたすら自分で作品を書き、新人賞を取ってデビューしたり、インターンシップに行ったりする、という時期。こう書くと簡単なことのように思えるかもしれないが、涙が出るくらい厳しい4年であり、その一つ一つを綴っているところが泣ける(というか自分は読みながら何回も泣いた)。

自分としてはまだ今年は8ヶ月あるのだが、この本が今年の自分的ベストになるだろうと確信。教員の方・教員になりたい方・教員でなくても教育に関心がある方みなさんにおすすめ。漫画の話もいろいろあるので、漫画を読んでいる人はより楽しめるだろうが、それとは無関係にいろいろと示唆に富む内容である。正直、最初「タイトルに漫画という単語が入っていないのはミスリーディングではないか?」と半分読んでもまだ思っていたが(漫画科を作る話がメインだと思っていたから)、全部読んでみると、やはりこれは新しい学科、もしくは学問(=方法論)を作るというのはどういうことか、という内容のエッセイであり、漫画がどうこうという話ではなく、普遍性のあるテーマで、「大学論」というタイトルは、正しかった。

詳しい内容は直接読んでもらうとして、この本の方向性は、あとから見返すとp.124に述べられているように、

 正直に言えば、入学前、ノートに「ドラゴンボール」の模写をした程度、あるいはイラストと称するアニメキャラふうの一枚画しか描いたことなのない学生を二年でまんがらしきものが描け、三年で投稿や持ち込みにいってもそこそこ相手にされるところまで持っていき、四年めで新人賞をとらせること自体はぼくにとってそう難しくない。それは偏差値四五の学生を六〇ぐらいに持ってくるカリキュラムづくりが大抵の予備校教師にとってさほど困難なことではないように、である。その点で、「実用的」なカリキュラムづくりは、そう手間はかからない。
 しかし、それだけならそれこそ専門学校でいい。ぼくにとって大学で教えるということは「直接、役に立たない」と学生が考えることをそれでもどう教えていくか、という、ある意味で「教養課程の復興」とでもいう側面が実はある。

ということであり、どのようにそれを実現しているか、あるいは筆者がどのような「教育」を受けてそうなったか、という話に舌を巻くのである。

折しも自分も「学生が自分の興味のあること以外はやりたがらない」という問題について考えるところがあって、どうしたらいいんだろうか、と思っていたので、この本は参考になった。自分なんかは中1のとき変体仮名の辞書を配られて文字通りの「原典」で古典を読んだり(同じ仮名なのに何通りも書き方があったことを知ってびっくりしたり)、「政治経済」の授業で「福翁自伝」を用いて明治時代の激動期の追体験をしたり、中2のときは David Copperfield が英語のテキストでイギリスの寄宿舎生活に思いを馳せたり、地理の授業では「俺は今年の夏にナウルに行ってきた。だから今年はナウルの話をする」とそれから3月までずっとナウルの話をする先生がいたり、前も書いたことがあるが「去年まで入院していて死について考えて、クルァーンを読んだら、けっこういいことが書いてあったので、今年はイスラーム史をやります」という東洋史の先生がいたり、まぁみんな好き勝手やっていたし、受験勉強なんて考えるとどの先生も「役に立たない」ことばかり教えていたわけだが、いまの自分にとって「役に立って」いるのは、そういう時代の「教養」なのだと思う。

自分に関して言えば、大学院に入学した当初は機械学習系の勉強会を除く全ての勉強会に出ていたのだが、それも「役に立たない」と思うことこそ自分の「役に立つ」ことを知っているからであって(と言いつつ最近は勉強会自体ほとんど出ていないが、いま出ていないのは数年後に影響が表れて痛い目を見るだろう)、最近の修士の人たちはあっさり自分の関心のある勉強会以外にはすぐに出なくなってしまったり、自分の関心から外れる論文を読まなかったり、もったいないなぁと思うのである。数日前の takahi-i さんのコメントにもあるように、「今は少々わからなくても出席して論文紹介するように」というアドバイスと同じで、分からなくても分からないなりに食いついて、自分で論文紹介もしたら少しずつピースがはまっていくと思うのだが、最初の分からない時期が耐えられないのかもしれない(それを乗り越えたら分かるようになる、というのを知っている先輩や教員側がケアするべき?)。大学院は学部までと違って強制的に勉強会に出ろと言われることもないので、自主性に任せるしかないのだが……。

話を戻すと、筆者の教え方というものは(これが一番いいと自分が言いたいわけではないが)、まず How を徹底的に身に付け、それから What を掘り起こす。ここまでは教員が教える。そこから先デビューして Why, When, Where を決めるのは学生自身だが、そこまでは教員が付き合う。デビューしたらあとはいっさいアドバイスをしない(ついた担当の編集者と揉めても困る)、というポリシー。「自分と向き合え」というのが強烈に伝わるのだが、このエッセイの全編を通じて学生への愛に満ちあふれているのも事実。AO入試で「この学生を育てたらどうなるか」をイメージして入学させるという話を読んで、そういうことを考えて面接しているのか!と気がついたり。他のまんが科のある大学は最初から描ける学生を入れる方針だが、それはつまらないから最初は描けない学生をむしろ入れて描けるようにして出していく、という姿勢も共感できる。これ、東大と NAIST のポリシーの違いと似ている。修士の話に限定してしまうが、東大って入るのは難しいのかもしれないけど、入ったときと出て行くときの学生の能力の上がり幅(のびしろ)を考えると、NAIST のほうが絶対おもしろい。まあ、そういうところで認識を共有しているので、この本を読んで絶賛したい気持ちになるのだろうが……。でも、やっぱり(筆者みたいに)後者のような大学を作りたい、と思うのである。

あと冒頭でこの本は「漫画の話ではない一般的な話だ」とは書いたが、題材にしている学科はまんが学科なので、実際はまんが家になれるかどうか、そして成功するまんが家になれるかどうかについても触れられているのだが、その中で印象的なのは「ああ、これで彼女も「こちら側」の住人になったのだな」というような表現が何回か出てくるところ。確かに、自分も(漫画家については分からないが)その感覚は分かる(と思う)。研究者になるのも、大学の課題をこなしているだけの「あちら側」から、もがき苦しんで生み出す「こちら側」へ来ないといけないし、どうしても「こちら側」に来られない人は、別の道を見つけるしかない(誤解の元なので断っておくが、「こちら側」がいい、と言っているわけではない)、「こちら側」で成功する人は、ある特徴を持っているようにも思う(経験が長い教員なんかはすぐに分かるのだろう)。自分は残念ながらそういう天性のものは持っていないように感じるので、努力と戦略で勝負するしかないのだが、やっぱりそういう感覚はどの分野にもあるのかもな、と思った。戦略で勝負、というのは@kashi_pong さんの「鹿島を指導教員として検討しておられる方へ」を読んで考えた用語。

書き始めるとこの本と同じ分量だけの文章が書けそうなのでこのあたりで止めておくが、学生の名前を覚えるのはまずその人の描く絵が浮かんで名前が次に浮かぶそうで、そして漫画の世界ではこれが正しい順番だ、ということが最後のほうで述べられていて、研究も同じだなーと思った。まず論文のことを知っていて、ああ、あの論文を書いた誰それさんね、と思われるのが研究者としては正しく、そういう論文(エンジニア的にはコード?)がないうちは何者でもない。自分も「ああ、あの生駒日記を書いている人ね」と言われることは多いのだが、アルファブロガーを目指しているわけでもなし、ちゃんと研究で世の中に知られないとだめだな、と思った次第。