「日本語」と「国語」について読んでおきたい3冊

前出の本は論文ではなく随筆(もしくは随筆風小説)であって、論考であるかのようにこちらこちらで取り上げられてしまったのが不幸の始まりかなと思うのだが、随筆として読めば「よく月刊誌に載っていそうな内容」の随筆なので、そういうのがおもしろいと思う人にはおもしろいと思う。

前半のハイライトとしては「アメリカに住むことになってしまったけど、英語も好きじゃなくて日本語ラブで、大きくなって日本語の小説家になったが、国際ワークショップに参加したら英語で議論しないといけなくて億劫である」という、なんとも日本人好みの設定だなぁ、と思うわけである。これ、アメリカで育って英語ペラペラでアメリカに住んでいる場合、こういう迎えられ方しないだろうし、逆に最初から日本で大きくなって国際ワークショップに呼ばれた人ならこうも書かないだろう。その自虐的なところが日本人のココロをくすぐるのだろうか……。そのあたりが評価分かれるところかな?個人的にはそういう随筆部分はいまさら感が強い(留学している人もたくさんいるし、Web で探しても山のように読める。「文章」がうまいかどうかはさておき、ライブで読めたり、コメント書けたり、自分はそちらのほうが好きである)ので、あえて読まなくていいと思った(個人的にはそういうのはブログで書いたらいいと思うのだが、買う人がいるなら大変結構なことだとも思う)。

あと、「最近の日本の知識層は同時代の小説なんか読まず、新書や Web から(日本語でも英語でも関係ない)知識を得ている」という指摘を明確にしているのは初めて見たので、それは鋭いと思った(もっとも、だから現代の日本語で小説を書くのはくだらなくて、近代の小説はよかった、という感傷に戻ってしまうのだが……)。

繰り返しになるが、個人的には彼女の意見に同意するが、彼女がそれを主張する方法には同意しない、その一点である。現代人の日本語力(これを彼女は「国語」と呼ぶのだが、その議論にはあえて深入りしない)が落ちていて、明治時代の文章であってもすでに読めなくなっている、これは知的に大きな損失である、これは全くその通りであるし、自分も中学高校と延々明治・大正期の文章を読まされなかったら(武蔵は明治時代からたぶん授業スタイルが変わっていない……)、自分も読めなくなっていたであろうと思うので、若い世代に半ば強制的に読ませるのは賛成である。この主張自体は自分のオリジナルでもなく、斎藤孝も言っていたと思うし、もっと前では立花隆も書いていた。恐らくさらに遡ることは難しくない。ただ、その中で唯一現状打開に成功している(というかそもそも前身しようと自分でアクションを起こしている)のは斎藤孝だけで、彼はしっかり昔の文章を現代人に読ませることに果敢に挑戦している。

声に出して読みたい日本語

声に出して読みたい日本語

結局のところ、ちゃんとしたアクションにつながらないのであれば、どれもぼやき以上でも以下でもないのだから、それなら説得的に書いたほうがいいと思うのだが……(そうしたら賛同者ももっと増えるだろう。)

さて、それだけではなんなので、「日本語」と「国語」についてもっと知っておきたい、という人に何冊かお勧め本を紹介しておく。まず1番目にお勧めなのは

植民地支配と日本語―台湾、満洲国、大陸占領地における言語政策

植民地支配と日本語―台湾、満洲国、大陸占領地における言語政策

で、植民地時代の日本語政策について非常に詳しく、綿密な考証と明晰な論理で書かれているし、なによりトーンが冷静なので、非常に説得力がある。分量も適切なので、まず取っかかりはこれを読むのがいいと思う。次は

2番目にお勧めなのは安田敏朗の著作で、1冊挙げるとすると

かな。安田敏朗は植民地時代の「日本語」と「国語」が主要な研究テーマで、日本は元より朝鮮や台湾や中国など各地それぞれで人物に焦点を当てて論文を書き続けているので、「もっと読みたい」という人の欲求は満たされると思う。ただ同じ話の繰り返しが多いので、何冊か読むと飽きてくる(研究書はものすごく分厚い本を書く人)。新書も何冊か書いているので、気軽に読みたい人はそちらを参照されるとよいと思うが(Amazon で「安田敏朗」を検索)、この著者の新書は内容が薄いので、新書だけ読んでがっかりするのは大変もったいない。著作の質にムラがあるので、この「近代日本言語史再考」シリーズ以外はまず図書館で借りたほうがいいと思う。

3番目にお勧めなのは

「国語」という思想―近代日本の言語認識

「国語」という思想―近代日本の言語認識

である。少し文章が回りくどいので読むのは時間かかるかもしれないが、参考文献を含めて1冊にまとまっているので、読みやすい。惜しむらくは著者がこの研究分野でもっと書いてくれていればいいのだが、この1作に勝るものは出ていない。

あとはおまけだが「日本語」と「国語」の問題について一番まっとうなことを言っているのは子安宣邦だと感じるのだが、たとえば

所収の「『国語』は死して『日本語』は生まれたか」が(短いながら)このトピックについては決定版かなと思っている(自分はこの本に入る前の「近代知のアルケオロジー」で読んだのだが、現在同書は絶版らしい。こちらの本は増補版なのに岩波現代文庫で安いので、こちらの本のほうがお勧め)。