出家する覚悟で奈良に行ってみた

首都大に来てから5年目が終わる。来年度で6年目で、これが終われば小学校・中学高校(中高一貫)・大学(7年いたが1年間は海外にいたので実質6年)と並ぶ。自分の性格的には環境に慣れてきてそろそろ中だるみしそうな感じなので、ここらでちょっとリフレッシュしたいと思っているのだが、なかなか……。

最近おぼろげながら感じるのは、大学院では教育と研究は不可分で、研究することが教育につながるし、教育することが研究につながると思っていたのだが、少なくとも修士(博士前期課程)だけ取り出してみると、厳然と違う部分も存在し、大学教員としての自分がやりたいことと、学生が(本人が自覚している場合も、自覚していない場合も含め)求めていることが若干ずれていることがあり、このずれに教員は自覚的でないといけないな、と思うようになった。

学部からいる学生は1年生からさんざん授業で顔を合わせるので、少なくとも教員がどういう性格か(研究室がどういう雰囲気か)は分かった上で来るのでいいのだが、大学院(博士前期課程)に外部から来る人はどれくらいの覚悟かも分からず、匙加減が難しい。博士後期課程に来る人に関しては(そもそも新卒で就職活動しようという人が来るのではないので)この問題はないのだが……。NAIST であれば、行くのに出家するくらいの覚悟が必要なのでスクリーニングとしては最高なのだが、首都大は「東京の大学に行きたい」みたいな学生の志望が少なくない(それ自体は否定すべきものではないが、その目的なら学生数が多くて困っているうちの研究室でなくて、もっと余裕のある研究室の方が、お互いハッピー)のである。

外部からうちの大学院に来る人に対し、出願前に博士後期課程に進学する意思があるかどうかを確認しているのは無茶な話だと自分でも思う(建前ではなく本気で博士後期課程に進学したいと思っていても、博士前期課程に入ってから気が変わるのは普通)し、苦肉の策として、社会人経験者以外はほとんど断ることにしていて、これは自分的には割と納得感が高い(社会人経験者はそもそも新卒採用のフローで就職活動をしないので)。結局、修士の2年間だけ専門を変えて何かしたい人は、外部から学生が来ることを前提として教員数が配置されている、大学院重点化している大学(あるいはそもそも大学院大学)の研究室に行ったほうがいい、ということだと思っている。(うちの大学は大学院重点化されていないので、外部から来る学生数を考慮した教員配置になっていない)

こんなに人工知能ひいては自然言語処理分野が注目されている時期は長いものではないだろうが、いつまでこんなのが続くのだろうか、と思ったりしている。