教会に来ると昔を思い出す

センター試験の2日目だが、なんとも幸運なことに今年はたまたま受験生が0人の教室だったようで、2日目の試験監督が免除になり、涙が出るほど嬉しい。妻は土曜日の試験監督がなく、日曜日の試験監督があり、家から遠いので前泊するほどだったのだが、今日自分が試験監督をすると、娘を見てもらえる人がいないので、前々から実家に頼んでいたくらいだったのだ。(かつ、保険で首都大の一時保育にも申し込んでおいた)

というわけで、土曜日に仕事ができなかった分を取り戻すべく、午前2時半から8時までひたすら言語処理学会年次大会の原稿のチェック。第2〜第3稿だが、まだだいたい1本1時間程度かかる。並列度が高いので、今年はとにかく到着順に見ることにしている。去年までは、完成度の低い、つまりテコ入れしなければならない順に見ていた(そういう原稿はしばしば遅れて来るので、遅れてきたら優先順位を上げていた)が、今年は〆切通り原稿を出して来ないことで完成度が上がらない論文は投稿を見送る方針を最初から伝えているのである。

〆切を守る人より守らない人が優遇されるのはよくないと思うし、来年も同じ方針で行こうと思っている。発表を見送らざるを得なくなってしまった学生には、不満が残ってしまうのだが、人数が多いとルールを決めざるを得ない。研究室における研究は教育的側面と不可分ではあるが、学生が等しく受ける権利があると考えられる教育の部分と、ある程度以上のクオリティがないと発表の権利すら与えられない(つまり、査読がある)研究の部分は違いがあり、研究部分は教員も「ノー」と言う勇気を持たないといけない、ということを、去年の3月以降意識しているのである(心情的には全部認めてあげたいし、自分は学生には甘くつけてあげたいと思っっているのだが、それは教育の部分で研究の結果だけでなく過程も評価することで担保する)。

午前中はそういうわけで仕事がなくなったので、両親の通っている(自分も子どもの頃通っていた)教会に行く。娘が産まれてからここに来るのは2回目である。賛美歌やお祈りを聞いていると、30年以上前のことなのに、ほとんど覚えているのにびっくりする(使う訳が変わっていて、文言が変わっていたりするけど)。賛美歌はシドニー大学に留学していたときに友人に連れられて教会に行き、そこで聞いたときも(10年以上ぶりで懐かしく)込み上げてくるものがあったが、今聞いてもなんだか涙が出そうになる。子どもの頃は全くそうは感じなかったが、賛美歌を聞いたり歌ったりするのは、精神的にいいのだろうなと思ったりする。

一方、聖書の輪読や牧師の先生の説教(解説)は、小学生で聞いても本当にちんぷんかんぷんで、全然興味を持てなかったのだが、今聞いたら一応言っていることは理解できるし、このように信徒の人の担当部分と牧師の先生の担当部分が両方あるのは割といいシステムだなと思う。というのも、これは研究室における全体ゼミ(勉強会、研究会などと呼ばれることも)と構造が酷似していて、ゼミで教科書や論文の輪読をするパートと、教員が講義をするパートがある、ということで、担当部分を分担したり、そこで何を話すか考えたりするのはまさしく研究室やゼミで教員と学生がやっていることと同じであり、こうやって少しずつ聖書に関する理解が深まっていくのだろうなと思うのである。(研究室で聖書くらいの分量の教科書を輪読すると2-3年かかるので、教会も何年もかかって通ってようやく意味が分かってくるのだろう)

レジュメ相当の配布資料を見ても、もはや教員目線で見てしまい、これ最初に作るの大変だったろうな、だとか、自分が出ているのは日曜日の午前中の礼拝の部分だけだけど、午後の伝道会の部分の準備も大変だろうな、とか、それ以外の平日も(日曜日にしかできない仕事が日曜日の集中しているとはいえ)たくさん仕事があるんだろうな(あるいは、信徒の人は教会の仕事をする時間の捻出、大変だろうな)、とか想像してしまう。

礼拝の間は結局2階部分で娘を遊ばせていて、礼拝が終わったら1階に降りてきたのだが、想像以上に若い人たちが多くてびっくり(2階部分からは死角になっていて見えなかった)。一時期は高齢者ばかりになってしまったと聞いていたが、こうやって若い人(高校生〜大学生くらいの年代)がいるのはいいことである。