本郷に行くか千葉かはランダムで

昨日の帰りから体調が悪く、吐き気を抑えながら帰宅し、そのまま歯をガタガタ言わせながら寝て、激しく汗をかきながら朝起きたら、吐き気は収まっていたが、体調はすぐれず、耳鼻咽喉科に行くと、扁桃腺炎とのことで、抗生剤を処方してもらった。最近年3-4回この症状で病院に行くので、なんとかしたい。

本来土曜日は少し仕事ができる余裕があるのだが、今週は木曜日からの体調不良で何もできない……。

東京大学第二工学部」を読む。

知らない人もいるかもしれないが、東大には現在の千葉大に相当する場所に1942-1951まで存在した「第二工学部」という組織があり、それのできるところから解体されるところまでを描いた新書である。戦時中に工学部のエンジニアが足りず、養成するために作ったということは自分も存在自体は知っていたが、ちゃんと調べてなかったのでおもしろかった。

受験のときは第一工学部(本郷)と区別なく試験を受け、合格通知にどちらに行くか書かれている(完全に平準化するため学生は入試の成績の上から順に交互に振り分けられ、例外はない)、という話は、いまの時代にやったら炎上しかねない(東大以外ではできない?)が、そんなことも許されたのか、という印象。

あと、教員のほうは学科によって対応が違い、年齢の上から交互に教授・助教授・助手を出した学科もあれば、教授陣は微動だにせず助教授を教授に昇進させて差し出す学科や、学外から教員を揃える学科まで、いろいろあったという話が興味深い。総じて教員の年齢が若いので、活気があった、という話も参考になる。やはり変えようという意志がある若い組織ならではの教育ができたのであろう。

また、千葉県が戦略的に大学を誘致していたというのもよい話である。東大の肝入りで作られた興亜工業大学(現在の千葉工業大学)とも関係が深く、交流が続いていたとか、後の慶応義塾大学理工学部となる藤原工業大学(王子製紙の社長を務め「製紙王」と言われた藤原銀次郎による設立)の話とか、第二次世界大戦を前にするこの時期に日本の工学部の基礎ができていて、現在につながるのだが、工学部とはどうあるべきか、というのは社会とは無関係ではない、ということを改めて意識させられる。

戦後は(その出自から)不要論が噴出して結局廃止に追い込まれた話も身につまされる。第二工学部自体は生産研(生産技術研究所)として学部教育を手放す形で生き残ることにしたのだが、減らす分の教員ポストに群がる(なんとかして工学部から奪おうとする)他学部の教員とか……。自分もそのうち教員ポスト(数)に一喜一憂するようになってしまうのかもしれないが、今後も大学教員を続けるにしても、あと20年はこういうのと無縁でいいかな……。(そう思っていても、否が応でも巻き込まれるのだろうが)