結果より過程を褒めるべきである

運動会も終わったので、国際会議の原稿の添削。結局のところ、どれくらい内容を把握しているかが問題で、内容を理解していない具合に応じて添削の難易度が上がっていく。ネイティブの人に見てもらうにしても、専門分野から離れれば離れるほど、コメントの有益性が損なわれていくので、少なくとも「コンピュータサイエンス」くらいの分野では共通していないと、ネイティブだからといってちゃんと添削できないと思った。(あと、そもそも自分が論文を投稿して査読された経験があるかどうかも、かなり違うと思う。論文はかなり書き方が決まっている文章で、プログラミングのできる人なら添削できる、というものでもないので)

そういえば、最近全然本が読めていないが、9月に以下の本『「学力」の経済学』を読んでいた。

「学力」の経済学

「学力」の経済学

これを勧める書評がいくつかあったためだが、確かに読んでみておもしろかった。教育は、ほとんどの人が自分でも受けているので、自らの経験から好き勝手に言いやすいのだが、自分が見ているのはほんの一部であって、一般化が必ずしも正しくないケースがままある。それぞれちゃんと根拠となる論文がリファーされているが、教育はちゃんとエビデンスに基づいて議論しましょう、というのが一貫しているストーリーであり、好感が持てる。「ヤバい経済学」なんかと同じ趣旨の本であるが、やはり自分はデータに基づく話が好きなのだな(だから言語学や哲学ではなく自然言語処理に来たのは必然だったのかな)と思う。

印象に残った話としては、よく「勉強したら金をあげる、というのは、内的な動機付けが失われるからよくない」と言われているが、本当にそうか?ということに関する研究があり、実験では実はそういうふうに実力をつける過程には直接的にお金をあげてもよいことが分かっていて、逆にダメなのは「試験で高い点数を取ったらお金をあげる」というような結果に報酬を与えるやり方で、これでもよいのは試験で点数が取れなかったら適切な指導が受けられる場合で、指導がない状態でお金だけあげると、適切な方向に努力できないようである。

研究のケースで考えてみると、論文を読んだり実験をしたり、あるいは国際会議に投稿することに報酬を与えるのはよいが、(適切な指導をせず)論文誌や国際会議に通ったことに報酬を与えるのはよくない、ということだが、いまの社会システム的には、結果に報酬を与えてしまっているような気がする。(特に、研究者は、業績が全て……)

自分も、研究室で本当に褒めたいのは、トップカンファレンスに通った人ではなく、毎日研究室に来て、自ら進んでサーベイをし、他人の論文紹介や進捗報告で積極的にコメントし、新しいツールやライブラリが出たら試したり、自分でいろいろ実装・実験し、定期的に論文を書いて投稿する人で、通るかどうかは実は割とどうでもよいと思っている(そのため、大学院生には、国際会議に投稿することは義務としているが、採択されることは義務づけていない)。通った方が嬉しいだろうし、自信もつくだろうが、大事なのはその過程でしっかり研究に取り組むことで、それを通じて課題の見つけ方や分析の仕方、分かりやすい表現の仕方を身につけられれば、それでいいんじゃないかな?(結果的に、論文が採択される人も多いとは思うけど)