比較広告

今日の新聞でグリコが「ガム虫歯予防効果5倍」という比較広告を出していたが、結局のところロッテが逆転勝訴したという記事が出ていたが、結局予防効果の実験に再現性が焦点になり、

 同高裁は再現実験を実施しようとしたが「グリコ側が自社の推薦する研究者による実験に固執したため、断念するに至った」と指摘。グリコの対応は「必要な立証を自ら放棄したものと同視すべきで実験の合理性はないと言わざるを得ない」と判断。

という展開に。グリコとしては

 実験は一流の研究者でなければ再現できず、判決は遺憾。

ということなのだが、どちらの言い分も一理ある。

科学では実験による再現性が必要というのが定説だが、そもそも再現するにも実験に関するノウハウがないと再現できないケースがよくある。もしくは素粒子に関する実験みたく、実験装置がないのでそこの人以外追試できないということもあったり、実験に費用がかかりすぎるので事実上追試できないこともあったり。表に出てくる論文やサービスの裏で、けっこう泥臭いことに関するテクニックがたくさんあって、そういうものも含めて持っていることがその研究室や会社の強みになっている。

とはいえこのケースにおいてはやはり軍配はロッテ(高裁)側にあるだろう。結果に疑義が生じたときは(少なくとも訓練すれば)他の人でも再現できるようになっていないと、分野外の人が来たときにその分野の正当性が保証できない。分野外の人に向けて説明する必要があるケースはそんなに多いわけではなく、たとえばこういう訴訟に発展する場合とか、もしくはその学問分野に対する新人をリクルートする場合など限られてはいるが、結局継続的にそのコミュニティが続いていくためには、きちんとした育成機関(もしくは教育カリキュラム)があるだとか、ちゃんと(開発者向けのではなく、ユーザ向けの)ドキュメンテーションがあるだとか、そういうことが求められるわけだ。

水俣病のときもタバコ訴訟のときも企業側の「科学者」は企業に都合のいいような実験データを量産したりそういう論文を学会に出したりしていたし、こういう「科学的」な装いをした説明っていうのは、気をつけないとふんふんとうのみにしてしまいがちだが、自分がある分野については専門家でも他の分野については一般人に過ぎないことは日常茶飯事なので、常にできるだけ批判的に考える心構えをしていることが肝要である。