朝暑さで目が覚めてうだうだと。暑いとシャワーを浴びて扇風機を使うのが一番気持ちいい。休日は1日に3回くらいシャワー浴びている気がする。小学生のころはこういうときは近所のプールに行っていたものだが、このあたりでプールがどこにあるか分からないし、昔ならともかくいまはプールに行くと病原菌をもらいそうで、怖くてなかなか足を運ぶことができない (銭湯も、常時通うならよいのだが、ときどき行くとかえって調子が悪くなることがある)。
本屋で見かけた新刊の「危ない大学」
- 作者: 海老原嗣生,倉部史記,諸星裕,山内太地
- 出版社/メーカー: 洋泉社
- 発売日: 2012/07/05
- メディア: 新書
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1年すると後輩が入ってきます。2年目の社員は、新卒社員にいちばん身近だから、教育担当をやらされるんですよ。大学時代のサークルのリーダーとか、バイトのリーダーというのは「イヤならすぐ辞めちゃう」っていう関係でしか教えてないですけど、全権自分に委任されて、箸にも棒にもかかんない赤子同様の新人を真剣に教えるという行為、これも生まれて初めてするんです。人に対して真剣に教えるという経験、ここで人間はすごく伸びる。たとえば、人に対して厳しく言い過ぎれば、たとえ正論であっても相手はそっぽを向いてしまうなどということが学べるんですよ。
…
大学が「アカデミズムの府」だとすれば、世の中の若者の50%が博士課程に行って、大学の研究者になる。そんな社会、成り立たないじゃないですか。目的としていちばん大きくなるのは「就職の府」になるだろうとボクは思っているんです。社会に出てもきちんと通用する人間になる、という勉強をしたらどうか、と。(pp.150-152)
というのも、いろいろと思うところがある。自分も大学で働き始めてから、毎年新しく学ぶことがあり、1年前の自分といまの自分を比べると、1年前はいかに物事を知らなかったか、と常に思っている。自分が第一著者で論文を書く機会は減ってしまったが、他の人といっしょに論文を書いて自分が赤を入れることで、逆に岡目八目でどのように書けばいいのかが分かるようになり、むしろ以前よりはるかに分かりやすい論文が書けるようになったという実感がある。あるいは、論文の査読が恒常的に回ってくるようになり、表に出ているよく書かれた論文だけではなく、箸にも棒にもかからない論文や、当落のボーダーの論文を目にするようになって、どこがポイントか見当がつくようになってきた、ということかもしれないが (もし後者だとすると、本質的に分かりやすい文章が書けるようになったということではなく、通るためのポイントが分かったというだけで、ちょっと微妙な感じだが……)。
前も書いたかもしれないが、大学院では (研究では、という意味かもしれないが) 恐らく「教える」という行為はなくて、たとえば論文を書くときも、工学分野では共著で書くことが多いのだが、第一著者なら第一著者なりの役割が、第二著者には第二著者の役割が、最終著者には最終著者なりの役割がそれぞれあり、各人がそれぞれの持ち場でベストを尽くす、ということで、(それぞれの役割の中での) 新人を鍛えていく、というような形で研究の進め方が伝承されていくのだと思う。
学生は教員より知識が少ないかというとそんなことは全くなく、そのテーマの最新の研究は学生のほうが熱心に追いかけていて、はるかに詳しいということも往々にしてあるし、どちらかというと教員の役割というのは、研究をしたいという学生の補助輪のような感じで、1つの研究をスタートして一区切りつけるまで見届ける、そういうことなんじゃないかと思うのである。(自転車に乗ったことない子どもが、七転八倒しながらなんとか一人で自転車に乗れるようになるまで、側でアドバイスしたり、必要なら荷台を持って一緒に助走してあげたり、知らぬ間にこっそり手を離したりしつつ、いつかは自分の足でペダルを漕いでひとりで自転車に乗れるようになるまで、付き合ってあげる、というような感じだろうか)
教えるという仕事について、代ゼミ講師の富田一彦先生の「試験勉強という名の知的冒険」
- 作者: 富田一彦
- 出版社/メーカー: 大和書房
- 発売日: 2012/04/16
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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