騒いでいる暇があったら少しでも前向きな行動をしたい

朝暑さで目が覚めてうだうだと。暑いとシャワーを浴びて扇風機を使うのが一番気持ちいい。休日は1日に3回くらいシャワー浴びている気がする。小学生のころはこういうときは近所のプールに行っていたものだが、このあたりでプールがどこにあるか分からないし、昔ならともかくいまはプールに行くと病原菌をもらいそうで、怖くてなかなか足を運ぶことができない (銭湯も、常時通うならよいのだが、ときどき行くとかえって調子が悪くなることがある)。

本屋で見かけた新刊の「危ない大学」

危ない大学 (新書y)

危ない大学 (新書y)

を読んでみた。なんだか聞いたような話ばかりで、「こんな馬鹿な学生がいる」という話ばかり繰り返されていて、食傷気味。もっと新しい視点で書かれた本がないのかと思う。巻末の「スペシャルインタビュー」3編は、この本の中でも毛色が違っておもしろく、就職活動を前提に大学の役割を再考しましょうという話とか、高校生に向けた出前授業は変に研究のレベルを落としたりしないで自分の半生を語りつつ最新の研究成果を話したほうが興味津々で聞いてもらえるとか、もっと未来に向けた話が書かれている。あと、海老原嗣生さんの文章で、

1年すると後輩が入ってきます。2年目の社員は、新卒社員にいちばん身近だから、教育担当をやらされるんですよ。大学時代のサークルのリーダーとか、バイトのリーダーというのは「イヤならすぐ辞めちゃう」っていう関係でしか教えてないですけど、全権自分に委任されて、箸にも棒にもかかんない赤子同様の新人を真剣に教えるという行為、これも生まれて初めてするんです。人に対して真剣に教えるという経験、ここで人間はすごく伸びる。たとえば、人に対して厳しく言い過ぎれば、たとえ正論であっても相手はそっぽを向いてしまうなどということが学べるんですよ。

大学が「アカデミズムの府」だとすれば、世の中の若者の50%が博士課程に行って、大学の研究者になる。そんな社会、成り立たないじゃないですか。目的としていちばん大きくなるのは「就職の府」になるだろうとボクは思っているんです。社会に出てもきちんと通用する人間になる、という勉強をしたらどうか、と。(pp.150-152)

というのも、いろいろと思うところがある。自分も大学で働き始めてから、毎年新しく学ぶことがあり、1年前の自分といまの自分を比べると、1年前はいかに物事を知らなかったか、と常に思っている。自分が第一著者で論文を書く機会は減ってしまったが、他の人といっしょに論文を書いて自分が赤を入れることで、逆に岡目八目でどのように書けばいいのかが分かるようになり、むしろ以前よりはるかに分かりやすい論文が書けるようになったという実感がある。あるいは、論文の査読が恒常的に回ってくるようになり、表に出ているよく書かれた論文だけではなく、箸にも棒にもかからない論文や、当落のボーダーの論文を目にするようになって、どこがポイントか見当がつくようになってきた、ということかもしれないが (もし後者だとすると、本質的に分かりやすい文章が書けるようになったということではなく、通るためのポイントが分かったというだけで、ちょっと微妙な感じだが……)。

前も書いたかもしれないが、大学院では (研究では、という意味かもしれないが) 恐らく「教える」という行為はなくて、たとえば論文を書くときも、工学分野では共著で書くことが多いのだが、第一著者なら第一著者なりの役割が、第二著者には第二著者の役割が、最終著者には最終著者なりの役割がそれぞれあり、各人がそれぞれの持ち場でベストを尽くす、ということで、(それぞれの役割の中での) 新人を鍛えていく、というような形で研究の進め方が伝承されていくのだと思う。

学生は教員より知識が少ないかというとそんなことは全くなく、そのテーマの最新の研究は学生のほうが熱心に追いかけていて、はるかに詳しいということも往々にしてあるし、どちらかというと教員の役割というのは、研究をしたいという学生の補助輪のような感じで、1つの研究をスタートして一区切りつけるまで見届ける、そういうことなんじゃないかと思うのである。(自転車に乗ったことない子どもが、七転八倒しながらなんとか一人で自転車に乗れるようになるまで、側でアドバイスしたり、必要なら荷台を持って一緒に助走してあげたり、知らぬ間にこっそり手を離したりしつつ、いつかは自分の足でペダルを漕いでひとりで自転車に乗れるようになるまで、付き合ってあげる、というような感じだろうか)

教えるという仕事について、代ゼミ講師の富田一彦先生の「試験勉強という名の知的冒険」

試験勉強という名の知的冒険

試験勉強という名の知的冒険

も先日高田馬場で発見して購入して読んところ、予備校だと1年間で全てが決着しなければならないので、1年間で全く何も知らない前提から志望校に合格できるところまで持って行く、という話が書かれており、こういう仕事をずっと続けてらっしゃるのはすごいなと驚嘆するばかりである。講師の足を掬おうとする学生とのやり取りが何回か出てきて、「ああ、こういう人いるいる」と思ったり……。相手の言質を取って質問してくるのだが、自分が理解したいというのではなく、相手の間違いを指摘して攻撃したいという感じなので、なんだかやり取りを見ていても気分が悪いし、されているほうはしんどいと思うのだが、そういうやり取りも含めて楽しむ、という視点は新鮮であった。変に取り乱したり、高圧的になったりせず、大きく構えるのがいいのだろうな。