Win-Win を目指さないふわふわとした関係がむしろよい

盛岡からの帰り道すがら、根津で一息。新しくできた nezu chiffon というカフェのシフォンケーキがたいそうおいしい。これくらいの近さにこんなカフェがあったら毎日来てしまいそうである。

(妻が「今日のブログ書かせてほしい」と言っていたが、書いてもらう前に奈良に戻ってきてしまった。ちなみに以前1回だけ妻が生駒日記を書いたことがある。文体の違いで分かると思うが……)

第五世代コンピュータについて先日 takuo-h くんに聞かれたのだが、そういえばそこまで体系的に調べたことなかったなと思って、@alohakunさんお勧めの「第5世代コンピュータを創る」を読む。

第5世代コンピュータを創る―淵一博に聞く

第5世代コンピュータを創る―淵一博に聞く

内容はそれなりにおもしろかったが、対談がよくないな〜。対談は普通の本と違ってちゃんと編集しないと相当読みにくいのだが、編集がよろしくない例である。先日「東大が倒産する日」を読んだと書いたが、あちらはちゃんと編集されていたので、なんとも言えず。その分野の前提知識がない人でも読んでついていけるようにするのが編集の役割だと思うのだが、なんだかそういう感じではない。(まあ、下の引用を見てもたった半ページの引用で2カ所も誤植があるし、対談の雰囲気を残す以上のやたら冗長な表現で書かれているので、読みづらい雰囲気は分かると思うが……)

とはいえ、書いてある内容はおもしろいので、この分野の研究者として楽しめた。逆に言うと、情報系の前提知識がない人にはあまりお勧めしない。こういう計算機や人工知能の研究の歴史も、知ると温故知新でおもしろい。先日の人工知能学会の参加者交流会でも第五世代コンピュータの話になって、第五世代コンピュータは結局使い道はなかったが並列推論マシンを完成させたし、そこで作った技術はいまこそ使えるのではないか、いま並列分散技術が再度注目されているが、デバッグが難しいという問題など、本当は30年前に我々が体験した問題のノウハウがうまく共有されず、世界でもう一度以前と同じことを繰り返しているのではないか、再活用するべきではないか、というお話を聞いた。

実際、自分も自然言語処理の解析についていろいろ調べていると第五世代コンピュータの時代の研究にさかのぼることがときどきあって、論文読んだりしていると「これっていまなら MapReduce」とか「こんな推論マシンなら GPU で作ればもっと安く速くできるんじゃ」とか思うのだが、過去人類ができたことが、技術の継承が途絶えてできなくなる、というのはもったいない話なので(でもそういう話は歴史を研究するとよく見つかるのだ)、現代にも活用できるものがあったら活用し、新しい問題に取り組んでいきたいものである。

一つお気に入りのエピソードがある。

渕 たとえば、自然言語処理とかなんとかいうと、片方に言語学者がいるわけですね。[...]たとえば田中穂積君などはそういうところは積極的で、だれそれというのがコンピュータにも理解がある言語学者らしいということを聞くと、出かけていって話をして、そのうちに電総研にその人も出入りするようになるとかいうのがあって、若手の言語学者が何人も永田町の時代から出入りしていたんですね。現在もそういう人たちが引き続きICOTに出入りしていて、いろいろ役に立っているけれども、学際的なところでぼくがちょっと気をつけたといえば、言語学者などにきてもらったときに、あまりギブ・アンド・テークみたいなものが先に立つと、そういうのが成り立たないんですね。要するに、コンピュータのほうで役に立つようなことを教えてくれ、みたいなことを直接に言ってもだめなんです。むしろどこかに関心の共通点があるわけだがら(ママ)、そこだけをよりどころにして、その関係はあまりビジネスライクに整理しないで、ふわふわとした形のほうがいいんじゃないかというのは初めから思っていて、それは効果的だったと思ん(ママ)ですね。
[...]
あまりぴたっと急いでくっつけようとすると、興味のあるところは違うのだということが先に現れてしまうわけです。何も一緒にやらなくてもいいということで学際がくずれてしまう。学際的なことをやろうと思うと、そのへんはあまりはっきりさせないで、そのへんの境界はあいまいにしておくほうが長続きするし、あいまいにしておけばお互いに得るところはないかというと、そういうことはなくて、むしろそのほうが効果は大きいわけですね。(pp.275-276)

というところ。自然言語処理は言語の問題と切っても切れない分野であるが、自分ももともと人文系の出身だということもあり、言語学者の人たちと一緒に自然言語処理も発展するとよいなと思っているのだが、確かに「コンピュータのほうで役に立つようなことを教えてくれ」みたいなことを言わないように気をつけてはいなかったな、と思う。今後はちょっと注意することにしよう。

これは言語学自然言語処理の話だが、ウェブ系の企業に出かけていって、自然言語処理が役に立ちそうな応用を教えてください、あるいは自然言語処理が使えそうなデータはありますか、なんて話すのはよくない、というのは同じような話だと思うし、実は昨年度はかれこれ両手で数えるくらいの会社にそういうふうに話をしに行ってどれも空振りに終わってしまい、東京に行く度に少なくない時間を使っていたのに全然先に続かなかった、という体験を思い返すと、やっぱり「はっきりさせないであいまいにしておく」というのは効果的なんではないかな、と思ったりするのだ。

今年度やらせてもらっている話はどれも関心の共通点を元にゆるやかに関係を続けていった結果続いている話で、やっていて自分たちも楽しい話であり、こういう関係を続けていきたいな、と思うのである。単に出かけていって話をするばかりではなく、ちょっとしたところから交流を始めておいて、機会があれば一緒にやる、というのが一番いいのではないかな。

松本先生はしょっちゅう「ICOT (新世代コンピュータ開発機構、第五世代コンピュータプロジェクトの推進機関で、いろんな企業や研究所から派遣で人が集まっていた)はよかった、いろんな人を育てた」と口癖のように言っているのだが、いまの時代の人を育てる機関というのはなんなんだろう。機関というようなかっちりしたものではないのかもしれないが、奈良にこもって研究したりするのは2-5年間の合宿みたいな感じで割合楽しいのではないかと思う。もっとこのあたりに人が呼べるといいのだけどなぁ……。