嫌々取り組むことは楽しいはずがない

午前中タグ付けミーティング。といっても金曜日にしたばかりなので特に議論せず、今後の予定の話。腰が痛いので早く終わるのは助かる……

午後、NL研の発表練習。最近発表練習をちゃんとする文化が復活してきたので、よいことである。聞きにくる学生少ないけど、人の振り見て我が振り直せ、なので、自分の発表じゃなくても聞きにきたほうがいいと思うよ (余計なお世話だが)。

図書館で借りていた本の返却期限が来ていた。早いなぁ。3冊借りていた最後の本は梅棹忠夫「行為と妄想 わたしの履歴書」。

行為と妄想 わたしの履歴書 (中公文庫)

行為と妄想 わたしの履歴書 (中公文庫)

本人の目が見えなくなってから書いた本だからかどうかは分からないが、話が散漫でだらだら続く感じ。大学者と呼ばれた人が今だから言える話をいろいろ語っているという意味では「へえ」と思うことはあるが、なんだか全体的に後ろ向きなので読んで元気になれない。毛利さんの自伝のほうがおもしろかったなぁ。

たとえば自分がいかがなものかと思うのは以下のようなくだり。

 一九四九年に大阪市立大学助教授になってから一九六五年まで、一六年間もそこにつとめた。教授にはならず万年助教授だった。
 はじめはあたらしいアカデミズムの場を創出をと意気ごんで赴任したのだが、事態はそんなふうにはうごかないことが次第にはっきりしてきた。ここはアカデミズムの府というよりは、単なる教育の場であった。学生たちは就職してサラリーマンになるために、大学卒という資格を手にいれるべく単位をとりにきているのである。かれらが学問に興味も情熱も持っていないことはあきらかであった。そのような学生たちをまえに講義をすることは、じつにうとましいことだった。もっともこれは大阪市大にかぎったことではなかったかもしれない。新制大学というものはそういうものだということをわたしが知らなかっただけのことである。(p.143)
 この大学の設立者の大阪市当局も、ここに学問の殿堂をきずきあげようなどという気は毛頭なかったであろう。大阪市民の子弟に大学教育の場を提供して、処世のための実学を身につけさせる装置なのである。[...]
 大阪市大の職についてからも、わたしは住所をかえなかった。京都北白川の家から大阪杉本町の大阪市大までは、二時間ちかくもかかった。この通勤もわたしには苦痛であった。つい休講の日がつづいた。のちに聞くところでは、わたしは一ども講義をしなかったという伝説があるらしいが、それはうそである。いやいやながら、けっこう講義はしていた。(p.144)

こんな感じで自分が嫌々やっていたことに対する言い訳とかなんだとか、なんだか潔くない。「そのような学生たちをまえに講義をすることは、じつにうとましいことだった」というのは、確かに率直に感想を書いたという点は評価できるが、なんかそう思って講義されていたら聞く方も聞きたくなくなるだろう、がっかり、という感じである。

夜はもう一度整体院に行ったところ、今度は背中と腰と足を入念にマッサージしてくれた。これはだいぶ身体が軽くなった。これなら定期的に通ってもいいなぁ。電気療法とか器具による治療は要らないので、マッサージだけうまいところを見つけるとよいのかな?