南の国から

中学高校の同期が NHK にいて、彼がディレクターとして制作した番組の再放送が今日あったので見てみた。

6月25日(日) 15:05~ NHK総合九州沖縄スペシャル「水俣 それぞれの祈り」

生きている人の問題として被害者の気持ちにスポットを当てて描いた力作だった。誰が悪いかとか、どうすればよかったかとか、これから似たようなことが起こらないようにするにはどうすればよいかとか、どう補償するかといった話はどれもあるのだが、そういう話とは別に被害を受けた人がどう生きているか、周りの人にどうしてもらいたいか、ということをしっかり伝えていた。

彼は現役で大学に入ってストレートで進学・就職したのでちょうど入れ違いになったのだが、大学では自分と研究室も同じところ(科学史・科学哲学)で、卒論は確か吉野川河口堰問題について書いていた。卒論書くときも文献調査だけでなく実際に四国まで行って関係者にインタビューしたとも聞いたし、今回の仕事もその延長線上にあるのだろう。

環境問題の複雑なところは、現時点で科学者でもその後どうなるか分からない(その時点の科学的知識を総動員して予測することはできても)ということがある状況で、政治的な行動を起こすかどうか決定しないといけないことがある点で、科学者は「自分たちは絶対正しい」という立場に立つのも間違っているし、逆に行政側が科学的データ(と一応呼んでおく)を無視して政治的な決定を下すのもおかしいし、さらに実際に住んでいる人たち(や生き物たち)の異見を聞かずに進めるのも禍根を残すということで、その環境に関わる全ての人がある程度問題に対する知識を持った上で協議して判断を下す必要があることだ。

ここで特に問題なのは科学者の立場の人たちで、大学の研究者にせよ企業の研究者にせよ特定の立場の人が自分たちの利益にかなうようなデータを出し、論文も書いて理論武装する、ということは普通のことなので、データが出ているからとそれをただ信じてしまうのはまずい。賛成側と反対側と両方の立場を踏まえた上でものを見ないと、簡単に判断を誤る(つまり、科学者側が故意に議論を誘導する意図があるにせよ、ないにせよ、結果的に他の人たちがだまされる)ということである。

環境に関する問題が特に重要なのは、科学的な知識が十分に蓄積されていない状況で政治的な判断を下さないといけないからである。科学者としては「これ以上のところは現時点では分からない」と答える態度が真摯な態度であるが、いままさになにか行動を起こさないと取り返しがつかなくなるかもしれない状況でなにかするかどうか決定しなければならないのである。大雑把に言うなら自分の手も相手の手も全部見て判断が下せる将棋とは違って、自分の手と他のプレイヤーが捨てた牌から他のプレイヤーの手を予測して自分の行動を決めなければならない麻雀との違いだと言える。

この番組に出てきたしのぶさんのように、被害者として声を上げて活動できる人もいれば、声を上げたくても上げられない人もいるのだなと思った。声を上げないのは言いたいことがないということを意味するのではなく、いろいろな理由でできない人もいるのだとすると、上げられる人が代わりに言うということも重要なのだな。

こんなのもあった。