ギルバート・グレイプ

チーズケーキを呼ばれたので食べに行くとちょうど映画が始まったところだったので観る。ギルバート・グレイプという映画らしい。この映画は1993年の映画らしいがよくできていて、ネタを仕込んでおいて最高潮に達したときにカタルシスがある、という感じの伏線が気づいただけでも20個はあって、それらがいいタイミングで配置されているので最後まで飽きずに楽しめた。

小学生や中学生・高校生のころはいわゆるトレンディドラマというものをそこそこ(週3,4本くらい)見ていたものだが、大学入るころは映画に限らず映像自体見なくなってしまったので、久しぶりで新鮮であった。なぜ見なくなったかというといくつか理由は考えられると思うが、一つは脚本書いたりしたいと思わなくなったことと、(ドラマに関しては)普通に就職する可能性がなくなったので感情移入できなくなったことと、最後は日常生活のほうが楽しくなってしまったことだ。

自分がドラマや映画を見る場合は、演じているのが誰かというのはほとんど興味がなくて(だから名前も分からない)、どういうふうに伏線張ってあとにつなげるかとか、どこにカメラがあってどこから録っているのかとか考えてしまうのだが、そういうのは自分がもしかしたら関係する業界に行くかもしれないと思っていたときにはやっていても苦痛ではないのだが、行く可能性がなくなってしまってからは、いろいろ考えながら見ていると純粋に映画を楽しめないなと思ってしまい、少し遠ざかったのであった。

また、ドラマや映画というのはけっこう見ている人の経験に依存して作られることが多く、作り手としても売れるかどうかという観点からは全く視聴者が共感できない(もしくは憧れることができない)設定にはできないようで、世の中のターゲットの人たちを意識して作られた映像は、どうやっても他人事のようにしか見ることができないのでなかなか感情移入できない。どこかでかい企業にでも入って働くのかもとまだ思っていた中学生高校生自体はともかく、別世界の出来事は別世界の出来事なので、そうと割り切らないと楽しめないのかもと思う。(だから年を取ると時代劇がおもしろくなるのか?)大学くらいまで来てしまうと、それまでは勉強するにしてもでも小説読んだり映画見たりするにしても、自分の将来について考えを巡らせることがあったのだが、だんだん大きくなると先行き明確になってしまって、妄想を膨らませることがしにくくなってしまった。

あと、自分は慎重な楽観主義者に育ち、自分が動けば世界が少しは変わると信じるようになったので、作り話を楽しんでいる暇があったらなにか別のことがしたくなったというのもある。恋に恋するお年ごろという言葉もあるが、こちらの世界のほうが作り話よりもっとドラマチックであり、自分の人生に関しても神さまがそう作ったとしか思えないほどよくできているとびっくりするし、自分の人生の先が知りたくてわくわくすることがある。

自分の人生最後まで行かないと読み返すことができないのが残念だが、自分で先の展開を考えて種を蒔いておくこともあれば、あとからここでこの人と出会ってこれをやったのは今のこの出来事の伏線だったのかと気づくこともあったりと、リアルタイムでもたいへんおもしろい。でもそういうストーリーに気がつくためには、他人が見ていなくても10倍・100倍努力しないと見つからないと思う(話すことの10倍は知っていないと他人に教えられないとか、100本論文読んでそのうち10本が直接関係していてやっと1本書けるとか)ので、日々がんばっているところ。

人生たなぼたばかり待っていてもそんなうまい話はないわけで、まずかんばって棚を作るところから始めないと。