白い巨塔と縦割り主義の弊害

しばらく前から読んでいた「白い巨塔

白い巨塔〈第1巻〉 (新潮文庫)

白い巨塔〈第1巻〉 (新潮文庫)

をようやく読み終わる。(全巻揃っている本屋がなかったので、あちこち探した。こういう文庫・新書とか漫画を Amazon で注文したら負けかなと思っている。)

これ新潮文庫では全5巻なのだが、第1巻はその昔途中まで読んだことがあって、第4巻と第5巻はあとから書き足したものだということは知っていたのだが、これまで読んだことがなかったのであった。

実は小学4年生くらいのときは手塚治虫の「ブラックジャック」と「ドクター K」を本屋で立ち読みしていて、医者になりたいなどと思っていたものだが、中学に入学するころには全く思っていなかったなぁ。議論するのが好きだったから、弁護士になるか、もしくは文章を読んだり書いたりするのが好きだから、小説家か新聞記者か編集者になるかと思っていたが……。(松本先生は「逃亡者」を見て高校生のとき医者になりたかったそうだが、さすがに年代が違う)

あまりネタバレになるので詳細は書かないが、大学病院を出た医師が無医村に行くのって、大学院まで行って自然言語処理を学んで博士号取った人が、自然言語処理のエンジニアがいない企業に「この企業の検索エンジンを一から作ってやる!」みたいな感じで入るようなものかなーと思った。そういう意味では自分は医者になるなら(たとえば自治医大に入って)無医村に行くような性格だとは思うのだが、その地域の全員の命がかかっているというのは、その会社の自然言語処理に関係するあらゆることを自分で引き受けるということなので、相当な覚悟がいるだろうし、@mhagiwaraさんとか@hillbigくんとか見ていてもすごいなぁと思う。多数自然言語処理関係のエンジニアがいるところに行くのは、大学病院に残って研究を続ける医局員のようなものだろう(それがいいとか悪いとかではなく、性格の問題として)。

妻と話していると、集中治療室は患者が何科の病気なんかなんて気にしないし、目の前に死にそうな人がいたらどんなことをしても助けるのが仕事だから、縦割りで「これはあの科の責任だからうちの科では見ない」「こんな知識はうちの科では必要ない」と言われると義憤を感じるそうなのだが、研究でも同じかな、と思って考えるところがあった。たとえば、「これは音声・画像・etc 処理グループの処理だから自分はタッチしない」と自然言語処理グループの人が言い出したりとか、逆に「こんなデータ構造・機械学習・etc の知識は自然言語処理では必要ないよ」と言い出したりとかしたら、どうだろう。そこに問題があるのに自分の分野ではないからとたらい回しにするのは、目の前に死にそうな人がいるのに「自分の専門分野ではないから、間違ったことをして失敗したら責任が取れない」と手を出さないのと同じことではなかろうか? 失敗もするだろうし、責任も取らなくてはいけないだろうが、誰かがやらなければならないだろうし、少なくともその問題を解かなければならない人をどこかから連れてくる、その人にやってもらうくらいのことはしないといけないんじゃなかろうか。

山崎豊子もあとがきで「これは医療について書きたかったわけではなく、縦割り社会について書きたかったので、その類型として大学、そして医療について書いた」と述べているが、そういう意味でいろいろと考えさせられる小説であった。自分のいるところからしか小説を書けない、そして、盆栽のように完成された小説を書くのではなく、一本一本木を植えていくような仕事しかできないが、そういう仕事がしたい、とあるが、自分もなにかぴっちり完成された仕事をするというよりは、一つ一つ積み重ねていく(前々から種をまいてそのうち回収していく)タイプの仕事のほうが肌に合っているし、共感する。

「私は盆栽作りのような枝ぶりのよい小説は書けそうもないし、また書きたいとも思わないのです。禿山に木を一本、一本、植林して行くような、いわば "植林小説" を書いて行きたい。素材としては、大阪の空と川と人間を書き続けたいのです。私にとっては、自分の育った風土の中から人間を見詰めて行くのが、最も確実な把握の方法だと思うのです」(第5巻 p.408)

自分にとってはこの「大阪」のところが「奈良」だったり「近畿」だったり「日本」だったりするわけだが、なにもないところになにかを根付かせたい、というのが自分のテーマなのかもなぁ。