センサーデータの利用と監視社会

こまごまとした用事があって1日けっこう研究室にいるはずなのに時間が足りない。なんでだろう?

センサーデータが企業や研究所で注目されていると思うのだが、

アメリカから<自由>が消える (扶桑社新書)

アメリカから<自由>が消える (扶桑社新書)

なんかを読むと、監視社会ってここまで来るんだ〜と感じたり。飛行機のチェックで9.11以降身体の中が見えるような検査機を導入したら、検査の仕事の人気が跳ね上がる(若い男子が応募)とか、なんだかなぁ。
ログ解析の仕事も似たところがあって、確かにいろんな有用な情報がログに含まれてはいるのだが、基本的にはゴミ漁りというか、誰かが捨てたゴミ袋をゴミ収集所で待ち構えていて、それをひっくり返して全部調べて、この人はこういう趣味(性癖)を持っている、みたいな感じの仕事なので、Hadoop を使って解析しました、と言っても本質的には後ろめたいことをしている感がある。(さすがに個人を特定してなにかしたりはしないが)
聴覚から視覚からなにから全部記録してなにかしたい、というライフログは企業でも実用化したいと思っているのだろうが、長期的に見て、自分のデータがどこまで永続的なのかということに関し、一般の人の感覚と、技術的に可能なことが乖離していると思う。というか既に自分がオールド・タイプになっている可能性も否定しないが……。

この本の中でマルチン・ニーメラー牧師の「彼らが最初共産主義社を攻撃したとき」という発言が引用されているのだが、いろいろ考えさせられる。

ナチ党が共産主義を攻撃したとき、
私は自分が多少不安だったが、共産主義者でなかったから何もしなかった。
 
ついでナチ党は社会主義者を攻撃した。
私は前よりも不安だったが、社会主義者ではなかったから何もしなかった。
 
ついで学校が、新聞が、ユダヤ人等々が攻撃された。
私はずっと不安だったが、まだ何もしなかった。
 
ナチ党はついに教会を攻撃した。
私は牧師だったから行動した―しかし、それは遅すぎた。

研究を続けるのも、企業で研究が削られるようになったらもう危ないのかもしれないなぁ。