はじめてのお使いに行きいい笑顔

午前中は今週から始まる部屋の壁紙の張り替えの打ち合わせ。全部無料でやってくれるのはいいのだが、鍵を開ける9時と鍵を閉める17時に立ち会わないといけないのが若干面倒。9時はともかく17時は……。時期を考えるとこのタイミング以外ではできないと思うので、仕方ないのだけど。

お昼は「お風呂屋さんに行きたい」と言うので東久留米のスーパー銭湯に行くと、屋台コーナーがあって射的やわたがし作りができたので、やってみたりする。花小金井の方よりこちらの方が子ども向けのイベントを定期的にやっているので、足を運びやすい。

午後は「お使いに行きたい」と言うので、自宅から100mくらいのところにあるコンビニまで牛乳を買いに行ってもらう。とはいえ1人だとちょっと心配なので、娘から見えないところからこっそり見て「はじめてのおつかい」状態で見守る。近道せず横断歩道を手を挙げて渡っていたり、しっかりしているなと思う。コンビニから出てきたらこちらが見えたようで、ニッコリしながら手を振っていたが、横断歩道をちゃんと一つずつ渡ってこちらに来る。もっと不安そうに迷うかと思っていたが、成長したものである。

「工学部ヒラノ教授のはじまりの場所」を読んでみた。

工学部ヒラノ教授のはじまりの場所 ―世田谷少年交差点物語―

工学部ヒラノ教授のはじまりの場所 ―世田谷少年交差点物語―

東京学芸大学附属世田谷中学校から(日比谷高校の受験に失敗し、城北高校を経て編入で)日比谷高校に入る話を書いているのだが、学大附属世田谷中学校に入ったときの話を読んでいると、自分が武蔵に入って感じたようなカルチャーショックが書かれていて、あー、分かる分かる、という感じ。自分も東京学芸大学附属小金井中学校と城北中学校を受験していたので、奇遇だなと思ったりする。昔書いたことがあるが、前者に落ちたので武蔵に行ったが、学芸大学附属に受かって進学していたら全然別の人生だったろうな。偏差値的にはいまは武蔵が66城北が58学大が55で、昔も大体こんなものだったので、武蔵には受かるか落ちるか分からないが、城北と学大には受かって学大に進学するつもりだったのである(学大の方が学費が安く、家からも近かったので)。

中学の話をすると、自分の家は極貧というわけではないが豊かであったというわけでもなく、公立の小学校にいると普通かなと思っていたのだが、武蔵に入ると同級生の親が弁護士や医者、大学教員や大企業の部長みたいな人がゴロゴロいて、子どもの金の使い方も明らかに違ったので、中1の1学期が終わるころまでには、これは場違いなところに来てしまった、と思ったものである。そのため中1は(少しだけバレー部に入っていたが)ずっと帰宅部で、ラジオ語学講座を聴きながら1時間歩いて帰るみたいな生活をしていた(語学が好きになったのはこのため)のだが、家の「太さ」みたいなのが気にならなくなったのは、中2の途中から将棋部に入ってからではないかな。今は自分が大学教員なので、場違いと思わせる側の親になってしまっている気がしているのだが、子どもには家が貧乏だと言い聞かせておいたほうがいいのもしれない。

あと、日比谷高校に入ってから東大に入ったあとの話も「あー、あるある」と頷く点がいろいろあり、ヒラノ教授は勉強ばかりしていたのだが(城北高校で「浪人」していたとき、日比谷高校に進学した同期から日比谷高校で使われている教科書を聞いて「先取り」学習をしたり)、ガリ勉で学校の成績だけ高くても特に周りの評価は高くない、というのはよく分かる。そもそも学校の成績を上げることに価値を置いている人は、文系では特に少ないと思うので……(理工系では学校の成績と進路が関係するので、学校の成績をがんばるのも意味があるのだが)。そもそも勉強した結果成績が上がるというのは分かるのだが、成績(席次)を上げるために勉強する、というのが自分にはあまり存在しない発想で、自分はこいつにこれは敵わない、と思ったら他のところで勝負しよう、という発想になる気がする(こういう話をすると、それはあなたが男4人兄弟で育ったからでしょう、と妻に言われたことがある)。

NAIST や首都大にいて(あるいは大学院から理転したせいかもしれないが)自分的に居心地がいいのもたぶんこのあたりに起因していて、NAIST や首都大は割と苦学生が多いので、なんだか応援したくなるのである。逆に、東大は裕福な学生が多かったと思うし(そうでない学生もたくさんいたけど)、特に文1で家が裕福な学生たちとは価値観が違いすぎて、授業でたまたまグループワークをしたり(文科と理科で取る授業が分かれていたので、ときどきこうなる)、あるいは休み時間に聞こえてくる雑談の内容でも絶句することがあったのを思い出す。いまの職場環境は、自分に合ったよい環境だと思う。