博士号取る前に読むべからず集

火曜日ということで例によって一日中(10時半〜16時半)進捗報告を聞く。

そういえば、先日「博士号のとり方 第6版」という本を献本していただいた。この本の旧版を読んだことがあるのだが、3年経って内容を忘れていたので、先日読み直した。

博士号のとり方[第6版]―学生と指導教員のための実践ハンドブック―

博士号のとり方[第6版]―学生と指導教員のための実践ハンドブック―

この本のポイントは、上記のリンク先でも書いたように、こういう行動を取ると博士号が取得できなくなる、あるいは取得が大幅に遠のく、という事例がたくさん載っていることで、博士号を取得したあとの人が読むと「あー、確かにそうだよねー」と思うことだらけなのだが、博士号を取得する前に読むと「え、何言ってんのこの人たち、これアカハラじゃないの」と思うかもしれない。あるいは、学部生のころ、いま思うと自分の将来のことを心配して色んな先生方が自分にかけてくださっていた言葉も、当時は「何でこの人たちはこんな権威主義的なことを言っているのだろうか」と思っていたので、アカデミアの中にいると段々と当たり前になるようなことは、外から見るとそうではない、ということなのだろう。(なので、この本を読むべきなのは、学部生あるいは博士前期課程の学生だと思う)

具体的には、指導教員の意見に従わないというのはどういう結論になるか、というのがいくつかのケースにわたって書かれていて、確かに嫌がらせであるケースもあると思うのだが(自分も学部時代は人文系で、そういうのを公衆の面前でやる教員を見たことがある)、少なくとも理工系の場合は学生と共著者として論文を書くので、研究者としての共著者ですら納得させることができないケースというのは、だいたい他の研究者も納得させることができないので、匿名の査読者を納得させることができず、結果として博士号が取得できない(博士論文が書けない)、という顛末になるのである。

大学教員は教員としての適性は特にチェックされずになれるので、教育的ではない人が指導教員になる可能性はあるのだが、少なくとも研究者としての適性がなければ大学教員にはなっていないので、研究者としての指導教員は納得させる必要がある(その分野の最低限の知識は持っているはずなので、研究的にその人の言うことに従わないというのはほぼ自殺行為)。論文を投稿した場合の「査読者ガチャ」とも呼ばれる自分の研究に必ずしも興味ない人を納得させることと比較すれば、指導教員は指導学生の研究には興味があるだろうし、指導する責任もあるため、匿名の査読者よりは好意的に見てくれるというバイアスがあるはずで、その状況で説得できないと厳しいと思う(指導教員だと結果だけでなく過程も見るので、相性がよくないと負のバイアスになるという欠点はあるが、相性がいいなら結果がかんばしくなくても過程を寄り添ってくれる(業績につながらなくても信じて評価してくれる)という利点もある)。

真に革新的な研究テーマに果敢に挑戦していて、指導教員でも価値を理解できないような内容であった場合は、確かに指導教員が反対しようが研究する価値はあるのだが、そのケースでも博士論文は博士論文として地道に研究をして博士号を取ることを優先した方がいいのでは、と思うので(アインシュタインも、最初は特殊相対性理論で博士論文を書いたが受理されず、別の学会で受け入られられるトピックで博士論文を書き、その後に相対性理論に関する研究が評価された)、いずれにせよ博士の学生は研究者としての指導教員は最大限に活用したほうがいいと思う。大学教員は、教育者としては反面教師である可能性もあるが、いずれにせよ上記の本のトーンは「そういうのも含めて指導教員を選ぶというのはそういうことだと理解して選ぶべきなので、変な指導教員を選んだ学生は不幸であるが、学生も自分に目がなかったと諦めるしかない」という論調で、自分も学生に同情する気持ちしかないが、その論調に関しては同意せざるをえない。

そもそも教員と学生では知識や情報に非対称性があり、学生が常に不利な状況にいて、教員が悪用しようと思えばいくらでも悪用できてしまうので、そういうことをしない人を教員にしないといけないと思うのだが、なかなか採用側の目利きも難しい。大学教員は、そもそも研究業績で公募の選抜がされるから、何を見れば教育的な人がどうか判断できるか、よく分からない。この本は「指導教員のための」とも題されているように、大学教員になりたい人、大学教員である人向けの内容も書かれているのであるが、(研究に興味があっても)教育に興味ない人は、そもそもこういう本を読まないだろうし……