コメントは受け取る側のために書く

朝から娘が「ばーちゃんち、行きたい」と言うが、ばーちゃんとじーちゃんは教会なんだよ、と言っても「ばーちゃん、ダイガク?ダイガクに行きたい」と言って聞かない(出かける用事=ダイガクらしい)ので、車で教会に行く。教会学校に行く?と言っても恥ずかしがり、特に話を聞くわけでなく、おもちゃで遊ぶだけだが……。

お昼ご飯を食べてから娘はババ宅に行ったので、国際会議の査読をしたりする。時間があまりないので長々と査読コメントを書けず、なかなか厳しい。area chair をした経験からすると、「忙しくてごめんね」と言いながら長文の(素晴らしい)査読コメントを書いてくれる人も少なくないので、時間があっても丁寧なコメントが書けるかというと疑問で、そもそもの査読コメントの執筆能力の問題である可能性も否定はしないが……。

ともあれ、査読をする前と後とで論文の書き方は変わった(どういう原稿が落とされるか分かったので、予防的に書けるようになった)のだが、area chair の経験前と後で明らかに違うのは査読コメントの書き方で、間違いなく通ると思う論文は世に出る前提でもっといい論文にするためのコメントをするように書き、ボーダーラインの論文は「この査読コメントを読んで area chair がボーダーラインを判断する助けになるか」という視点で(場合によっては、著者らには送らないコメントとして)書くようになった一方、一見どうしようもない論文にはあまりコメントを書かなくなった。

以前(助教のころ、そして准教授になりたてのころ)は教育的効果を考えて、落とす(落ちる)論文にもたくさんコメントをつけていたのだが、コメントの書きやすい(何を書いてもアドバイスになる)論文にエフォートを使うのではなく、知識や経験がないとコメントができない(誰でも的確、適切なコメントができるわけではない)論文にエフォートを使うようになったのである。この変化、良いか悪いか分からないが、学会活動に使える時間が有限である以上、このように最適化するのが(現在の自分の立ち位置を考えると)妥当かなと思っている。