コンピュータからも学べることがある

2週間も経つと何をしていたのか思い出せない……。

最近読んだ本で「棋士とAI -- アルファ碁から始まった未来」というのがとてもおもしろかった。

棋士とAI――アルファ碁から始まった未来 (岩波新書)

棋士とAI――アルファ碁から始まった未来 (岩波新書)

プロの囲碁棋士によるコンピュータ囲碁との向き合い方の本で、コンピュータ将棋と違いコンピュータ囲碁は人間より遥か遠くに行ってしまったので、人間(プロ棋士)がコンピュータから学ぶということが普通に起きているとは聞いていたが、感覚についても大変参考になった。

一番読んでいて「なるほど」と思ったのは、機械学習(特にコンピュータ囲碁においては深層学習)は人間と違って指した手の理由が分からないと言われるが、そんなことはない、という指摘。そもそも人間ですら指した手が「こういう理由で指した」と言えることはそんなに多くはなく、ほとんどはふわっとした感じで「なんとなくよさそう」と思って指していて、強いて説明しろと言われればできることもあるが、ほとんどの場合「聞かれたから答える」のであって、そんなの意識していない、という話である。また、人間だと自然言語で説明するしかなく、定量的な手の評価もできないが、コンピュータだと手の確率値やそれ以降の指し手を出力できるので、むしろ囲碁ではコンピュータの方が人間よりちゃんと「説明」できている、と。

自分の自然言語処理に対する感覚もこれと同じようなところがあって、「機械学習だと説明できない、人間なら説明できる」みたいな言説が広く信じられているが、人間でもほとんどの場合ちゃんと説明できる訳ではないし、説明という行為自身によるバイアスもある(ほとんどの場合、説明などせずに言葉を使っている)ので、機械学習(深層学習含む)の方が(評価値を出力できたり、ちゃんと手順を出したりして)解釈性に優れる点もあるのではないか、と考えている。もちろん、それを前提として言語化できるところをしっかり言語化することの意義は大きいのだけど、少数の大家が優れた理論を残す(それ以外は死屍累々)ようなやり方ではなく、標準的な思考能力のある人が小さなグループを作ればちゃんと前に進んでいけるような、そういうやり方を模索していきたい。

同様の趣旨で、「人工知能の『最適解』と人間の選択」もそこそこ楽しめた。

コンピュータ将棋で強くなった世代(藤井聡太六段とか)、そもそも評価値を見ながら指し手の感覚を身につける、という話はまさに「人間は手の良し悪しを教えてくれないが、機械は教えてくれる」というのを地で行っていて、こういうふうに「デジタルネイティブ」が育っていくのか、と思った次第である。自分はなかなかその心境にはなれないので、10年もすればすっかり取り残されそうである。

あと「AIに心は宿るのか」も読んでみたが、こちらは期待外れだった。

技術的に楽観論で行くならちゃんと現在の状況を把握して書いた方がいいいと思うのだが、言語生成に関する最近の発展を反映していないのではないかなぁ。流れが早すぎて、本というフォーマットに追いつかないのだろうけど……。

将棋といえは「りゅうおうのおしごと!」という将棋アニメが放映されているので見ているが、将棋のいいところを半分削ぎ落としてラノベにしたらこうなる、というような感じで、将棋の普及に貢献するという点ではいいのだが、さすがにこれは(ラノベなので忠実に描く必要はないにせよ、これを将棋あるいは将棋界と呼ぶのは)失礼ではないか、と思うレベルである(本のほうを読んでいないので、アニメの演出がそうなっているだけかもしれないが)。個々のエピソードは将棋や将棋界から取っているのだが、根本的に将棋および将棋界に対する理解がないので、表層的に出てくるだけで、残念な感じ。

唯一好きなシーンは主人公の「あい」が集中して読みに入るところで、ここはしっかり描いているなと思うのだが、それ以外はほぼ全員、ほぼ全ての指し手がノータイムで指されていて(持ち時間は減っているので、指し手を考えるという概念は持っているようだが、絵にならないと判断されたのか、考える姿自体は徹底的に省略されている)、将棋が反射ゲームみたいになっているのがちょっと……。