回数を増やせば増やすほど効果

朝6時半から1時半ほどメール処理。「あまちゃん」と「まれ」の朝の放送が終わってからというもの、朝ドラマを見ながらご飯を食べたりするモチベーションがだだ下がりで、つい娘が寝ているうちは仕事をしてしまうのである。

午前中は国際交流科目(自然言語処理入門)。履修登録生は結局1名のみで、研究室の M1 の学生が5-6人出てくれるのはよいが、これもう少しなんとかならないものだろうか。自分が英語をたくさん喋っても意味がないので、もっと授業中に学生が喋るようにしたいのだが、今の仕事の詰まり具合でそれを準備するのが難しい。

夕方はTokyoCL 勉強会に参加(いつも気になるのだが、Google Sites のデフォルトのページ名、漢字が中国語読みでローマ字になるのが痛い)。T2 meeting(東大・東工大)という自然言語処理の勉強会がその昔開催されていたのだが、うやむやのうちに消滅してしまっていたのを、daiti-m さんが復活させた、という経緯である。見た感じ、自分が参加したのは2009年9月が最後のようだが、それ以降開催されていないような気もする。確かに東京にはたくさん研究をしている人がいるので、うまく開催できればいいのだが……

考えてみると、国際会議(ACL や NAACL、EMNLP といったいわゆるトップカンファレンス)の論文読み会は2010年くらいから逆に大学横断・企業横断で開かれるようになったので、もしかすると、論文を読んで消費する需要は高いが、論文を書く側になる人も少なければ、そうなりたいというモチベーションも特にない、ということなのかも。

T2 meeting およびそれを受け継ぐ TokyoCL 勉強会は、短時間でたくさんの最先端の論文を紹介するという論文読み会とは真逆の方向性で(というか直交?)、時間をたっぷりかけて重要な(古典も含めた)論文を読んだり、研究についてたっぷりディスカッションしたり、という会である。個人的にはこういう勉強会の方が好みなので、TokyoCL が復活してくれたのはとてもありがたい。

以下、長文なのでデフォルトでは隠しておく。


ふと思い出したが、自分は中学・高校生のころ将棋部に所属していて、高1のとき全国高等学校将棋選手権の個人戦の都代表として出場する機会があった。今と違ってオンライン将棋なんてものはないし、将棋道場みたいなものに通っていたわけでもないので、学校の部室で昼休みや放課後に将棋を指し(だいたい夜7時くらいまで、毎日1手10-30秒の早指し)、将棋の本や週刊誌・雑誌を買って読んだりするのが将棋に関する全てだったのだが、中学生・高校生ながら、部活の中で「名人戦」などと称して持ち時間数時間のタイトル戦(番勝負)を開催したり、じっくり時間をかけて考える、ということの基礎はここで培われたものだと思う(1手に何十分もかける、というのは初めは信じられなかったが、訓練したらできるようになる)。

話を戻すと、高1の自分は多感な時期だったもので、もしかして全国大会で優勝するくらい実力があれば、プロになっても通用するのでは? などと思っていて、もしベスト8にでも残れればプロ棋士を目指してみよう、と考えたりしつつ、全国大会に向かった(青春18きっぷで徳島の母の実家まで行った)。会場に、16歳から将棋を始めてトッププロ棋士になったことで有名な森雞二九段が来ることも調べていて、弟子入りするなら森先生のところだろう、なんて妄想していたのである。

結果的に、自分は1回戦を通過したかどうかの記憶も定かではないが、とにかくベスト16に残ることもできずに敗退し、プロ棋士になる道はすっぱり諦めたわけだが、1泊2日で行われる選手権では都の個人戦代表と団体戦代表が同じ部屋に泊まることになっているので、夜な夜な団体戦代表の麻布高校のメンバー(この年、全国大会でも優勝)がものすごい短時間の「切れ負け」で将棋を指しているのを見て、これはかなわない、と思ったのが、強烈な印象である。

将棋や囲碁をしない人のために説明すると、テレビの放送などでも使われる「チェスクロック」という持ち時間の計測器があり、デジタル式のものは「秒読み」「切れ負け」の設定ができるのだが、「秒読み」は1手あたりの持ち時間(例えば30秒、例えば1分)が決められていて、1手指すごとに持ち時間がリセットされるので、時間が足りない!となっても一手指せばまた時間が戻るので、間違った応手をすることはあっても、意味不明な手を指すことは基本的にありえない。一方、「切れ負け」というのは、トータルで使える時間が決まっているので、例えば「残り5秒」となったら本当に5秒経つと負けであり、駒を移動するのに0.1秒は確実にかかるので、とにかく最後は意味不明な王手連続や駒の上下でも、相手の時間切れに追い込めば勝ちになるので、形勢は必勝でも時間切れで負け、ということが十分ありうる。

この違いがどこに出てくるか? ということだが、「秒読み」は理屈の上では勝敗のつくまで時間的には無限に指し続けることが可能であるのに対し、「切れ負け」はどう頑張っても自分と相手の時間の総和までには勝敗が決するので、とにかく数多く対局できる、というのが決定的な違いである。もちろん、将棋的には意味不明な手もたくさん出るだろうし、将棋の本筋とは関係ない時間攻めになる対局もあるだろうし、それを考慮した戦術を取ることもあって、質は高くないのかもしれないが、大事なのはとにかく数をこなせるということで、他の人の何10倍どころか何100倍、何1000倍もの対局をすることができ(例えば3分切れ負けだと最長でも6分で勝負がつくので、1時間に10局でき、放課後3時から7時まで4時間やると40局、年間で数千局指せる)、まずいことをして負けても気を取り直して次の対局をすればいいだけなので、圧倒的に高速に実力をつけることができる。Fail fast, fail often. というのが学習として最も効率的である、というのはよく言われているが、それを強制的に実行できる、という実に効率的な仕組みなのである。

ただ、それを見て高校に帰ってきて、同じようにすれば強くなれるだろうと思って、それをやりたいか? と自問自答したのだが、やはり自分は最低限のクオリティは保ちたい、という気持ちが強く、たくさん秒読みの対局を繰り返し、時々長時間のタイトル戦をする、という習慣を変えず、結局高校生活3年間で全国大会に出場できたのはその1回だけだった(都内の高校将棋の団体戦ではいつも1位が麻布、2位が武蔵で、1位しか全国大会に行けないので、ずっと惜敗だった)が、将棋に対する考え方の違いなので、こればかりは仕方ないな、と思っている。

自然言語処理研究も自分にとっては同じような感じで、言語処理100本ノックをやったり、最先端の論文をたくさんざっと眺めたり、流行のツールを試したりするのって、切れ負けの将棋をたくさん指すような感じで、即効性はあるだろうし、始めたばかりの初心者のとっかかりにはとても良いのでむしろお勧めしたいのだが、そればかりではなく、古典をじっくり読んでみたり、言語学機械学習の本を時間をかけて勉強したり、というようなことも、時間をとってやるようにしたいな、と考えている(それで最先端から少し遅れてしまうことになるかもしれないが、古典をないがしろにして新しいものだけで固めるのは、あまり自分の趣味ではないので、遅れることの弊害は甘受する)。