書くことで自分自身を振り返る

朝は SICP(プログラミングの教科書)の勉強会。年度内に第2章までは終わらせよう、と思っていたのだが、1人は最後まで解いてきてくれたので、なんとか終わってよかった。ちゃんとやれば書けるようになっていると思うし、実際うちの研究室の基礎勉強会をこなした人たちは、研究に関するプログラミングで詰まってにっちもさっちも行かなくなっている人はいないので、意味はあるのだろう。

しかし課題を解いてこない人に関して、どのように対応するのが正解なのか結局最後まで分からなかった。結局その場で書くのに何時間か付き合ったりしたので(ちゃんと解いてきた人には申し訳なかったけど)、任意参加でよかったのかもなぁ、と思ったりする。

大学・大学院としてはプログラミングできるようにすることが仕事ではなく、卒業論文なり修士論文なりを書けるようにする(書いてもらう)のが仕事だと思うので、「プログラムは書きたくないけど卒業したい」という学生にはプログラミング成分の少ない研究テーマをしてもらう、というのがよくある「指導」だと思う。ただ、学生がプログラミングができるようになりたい、と思って入学してきたのであれば、プログラミングができるようにしてあげたい、と個人的には思っていて、そうすると「プログラミングができるようになりたいけど、プログラムは書きたくない(書かない)」という学生にはどうすればいいのだろうか……(実際書けるようになっているかどうかは別にして、書けるようになった、と錯覚してもらえば、短期的には学生の見かけ上の満足度は上がると思うのだが、それは自分の趣味ではない)。

昨年も紹介したが、2015年のマンガ大賞を受賞したらしい東村アキコの「かくかくしかじか」の5巻(完結)が出て、出会ったときから死ぬ間際までとにかく「描け」と言い続ける先生を見て、下手でもなんでも「描く」ということで(一緒にいるときは気がつかなかったが)鍛えられた、という話を読んで、全くこれと同じだよなぁ、と思う。

研究者でも開発者でもとにかくなにかを「書く」しかないし、スランプに陥ることはあるだろうけど、それでもなにかを書くことでしかスランプを脱出できないし、いろいろ理由をつけて書こうとしない人は結局書けるようにならない、というのはどこの世界でも同じなんじゃなかろうか。自分も(この先生ほどスパルタではないが)学生を鍛える、という姿勢に全く共感するし、書かない人がいても「書け」と言い続ける(自分でもなにかを書き続ける)のが自分の仕事かなと思っている。

誤解のないように補足すると、別に万人が絵や論文やプログラムを書けるようになる必要があるとも、書ける方が偉いとも全く思っているわけでも言っているわけでもなく、世の中にはなにかを書くことが体に染み付いている人がいて、そういう人は必然的にプロとして(ポジティブに言えば天職であるが、要は因縁というか業というか……)そういう仕事に就くのかな、というのが言いたいことである。

昼はお仕事で日野に来た [twitter:@mizukirc] ちゃんとランチ。研究室は違う(物理的には真下の部屋)のだが、NAIST の同期で、一緒に花火をしたり誕生日パーティをしたり、懐かしい。最後に会ったのは何年前か分からないが、NAIST のあの環境で5年間を一緒に過ごすと、何年ぶりに出会っても、昨日のことのようである。

うちの学生も5人ランチに来てくれたのだが、研究テーマについて話したりしてくれてありがたい。学生にとって、社会人の人の仕事の話を聞いたり自分の話を聞いてもらったり、そういうことの一つ一つが成長につながると思うので、しょっちゅう声をかけているのである。いったん仕事が始まると、短期間あるいは一つ一つのイベントで学ぶ量が少しずつ少なくなっていくのだが、学生のうちは本当にささいなことがきっかけになったり、少しだけでもすごく吸収して大きく成長したりすることが稀ではないので、そういう姿を近くで見られる、というのが教員の醍醐味ではないかと思うのである。

午後は共同研究のミーティングである。昨年度から少しずつ関わっていて、来年度は割とがっつり分担することになりそうだが、夏休みに一つのマイルストーンがあるようなので、他の分担グループの仕事を待たず、少しずつ準備をしておかないといけないのではないか……。

夕方は研究室配属が決まった学部4年生の呼び出しを掲示したりする。うちの研究室は結局4名。名実ともに来年度の研究室メンバーは20人である。とりあえずメールアドレスの判明している大学院の新入生を研究室 SNS に招待したり、研究室体験(インターンシップ)で来ていた学部3年生のアカウントを逆に SNS から外したり、そろそろ新年度、という感じである。