常に研究にすることを意識して取り組む

午前中、現在住んでいるところの退去手続き。3月9日に引っ越すので、今日か明日に手続きをしなければならなかった (2週間前までに手続きする必要がある) が、たまたま今日は午前中の予定が空いたので、明日に行くつもりだったのを早めたのである。

いろいろ手続きすることはあったが、無事完了。書類を記入しつつ雑談していたが、この団地は場所がよく、家賃も安いのですぐ埋まるらしい。そのため、空きが出てもインターネットに載せていないのだとか。1部屋のリニューアルに500万円かかっているそうだが、リニューアル物件は月々1万円家賃が高い (それでも2LDKで共益費抜き5.7万円) だけなので、元が取れないと噂されているのだとか……。確かに500万円の差額を埋めようと思うと単純計算でも40年かかるのだが、本当に40年使い続けるつもりなんだろうか。元々築40年だったので、ちょうど同じだけの期間使い続ける計算だが、ベースの部分は40年後には80年選手になるし。

あと担当の方は外見から見て自分のことを20代中ごろだと思っていて、「若くして結婚しているのね」と思っていたそうだが、話をしていて「あれ、なんだか計算が合わない」と気がついたそうで、実は息子さんと自分が同じ年齢らしく、びっくりされていた。確かについ最近まで学生をしていたので、学生に見えてもおかしくないが、大学入学直後は新入生勧誘にスルーされるくらいだったので、裏を返すと自分は実年齢にかかわらず、ずっと20代半ばくらいに見えるのであろう。自分の写真を見ても、高校生くらいから顔はほとんど変わっていない (オーストラリアに行ってから顔のシミが増えたくらい)。

午後は修士論文最終発表会x3。[twitter:@keiskS] くんの発表を聞いてのコメントで、関先生が開口一番「すごくよく書けています。この大学でずっと修士論文を見てきましたが、一二を争うほどです」とおっしゃったのにびっくりしたが、そういう研究を横で見ることができたのは、幸せなことだなと思った。確かによく書けていると思うし、こうやってちゃんと一つの論文を書き切るのは大事なことである。

この研究がスタートしたのも、1年前のちょうど今ごろの時期で、それまでは影も形もなかったテーマだし、英作文の文法誤り訂正の共通タスクに参加することになって、その派生で生まれたテーマなので、人生なにがあるか分からないから、常に目の前の課題に真剣に取り組む、というのは重要である。共通タスクだからと適当にやったりせず、常に研究にならないか (つまり、適当な実装でお茶を濁すのではなく、研究として新規性のある手法を試す) という意識でやると、次につながることもあるんじゃないかな。というか、査読付きの国際会議に投稿するつもりで新しいことに取り組まないなら、参加しなくていいんじゃないかと思う (少なくとも自分は、そういう論文を書くつもりでいつも取り組んでいる)。

もちろん、研究グループを立ち上げるために取り組む (参加することに意義がある) という場合もあるが、それは複数年かけて育てる研究をするときで、1回参加して作ったシステムが次回に引き継がれないなら、1回1回でちゃんとあとに残る研究成果にしていかないと、何のために研究しているのか分からないし。

あと、最近の松本研の博士の学生を見ていると、先行研究からのものすごい差分を求めていつまでも論文が書けない人と、逆に先行研究からの差分の意識が希薄でいろいろやっても論文につながらない人に大きく分かれていて、もう少しそれぞれ中庸になれないか、と思ったりする。どっちの人も気の毒な感じだが、考えすぎな人はもっと小さいサイクルでどんどん論文を投稿するとよい (一発大きなのを当てるより、コンスタントに毎年何かを出すのがプロ) し、器用貧乏な人は少しうまく行かないくらいでコロコロ取り組むタスクや手法を変えたりせず、腰を落ち着けて研究したらどうかな。

たとえばすごくよく論文を読んでいて、他の人の研究には「XXX という先行研究があるので読むとよい」とか「YYY という論文の手法が使えそうだから試してみたら」とアドバイスする人がいるのだが、これも「器用貧乏」系で、「よく勉強しているな」と感心するのだが、かといって「よく研究しているな」とは思わない。研究となると他の誰もまだやっていないことをやらないといけないので、その新しく実装・実験する内容は、どれくらい新規・重要か? ということを考えないと、研究につながらないのである。もちろん、研究だからこんなことを意識する必要があるだけで、開発的にはあまり関係ないことなのだが……これを意識するのが面倒くさく感じる人は、たぶん研究よりは開発のほうが向いているし、それはそれでよいと思う (優劣の問題ではない)。

夜は ACL/ICML に投稿した人たち、そして修士論文の発表が終わった人たちのプチお疲れさま会。ちゃんとフルペーパーにみんな投稿していて偉い。最近、ショートペーパーを最初から目指して研究するのはよくないと思っている。結果的にショートペーパーになるのはかまわないし、研究をスタートしたばかりの人がお試しに投稿するとか、あるいは一度フルペーパーを書いた経験のある人が書くのはよいけど、最初からショートペーパーを目指してしまうと、小さな研究になってしまう。なにより、研究として残っていかないのが致命的だと思うのである。

もちろんフルペーパーでもショートペーパーでも国際会議には行けるし、国際会議に行くことが目的であればそれに最適化したらショートペーパーを書くのがいちばん効率がよいのかもしれないが、(少なくとも建前上は) 国際会議に行くために論文を書いているのではなく、研究を前に進めるために書いているわけであって、先に続かない形でショートペーパーにして研究を刈り取ってしまうのはもったいないと思うのである。これ以上続けるつもりがないテーマで、にっちもさっちも行かないのでショートペーパーになってしまうことはあるだろうが、自分自身続けるつもりがない研究を投稿するというのも後ろ向きな気がする。もちろん、他の人が続きをやってほしいから、記録のために投稿・発表したい、ということはあるだろうが……

私の大学院研究指導を受ける前に、という記事を読んで、ちょっと言い方は違うが、同じようなことを思う。

「研究者」、つねに新しい発見を発信し続ける研究者になりたいのであれば歓迎するが、その道は厳しい。(中略) つまらぬ「査読付き」なる論文を書くためではない。
(中略)
ひとりで本を読むのが好きなだけ、誰も読まない雑誌に投稿論文を書いて片仮名の固有名詞を振り回し、満足げに片仮名固有名詞を「批判」をするという程度の目標だとしたら、私のところへは来ないほうがよい。