ときには心と身体をリフレッシュ

先週末は土日とも研究室に来ていて言語処理学会年次大会の原稿添削、今週は月曜から毎日終電、金曜日から土曜日にかけては徹夜だったので、1日オフにさせてもらう (この日休むことは前から学生には言ってあったけど)。1日でも休まないと身体が持たない。

というわけで、先週から溜まっていた洗濯を片付け、先月から予約を入れていたマッサージ (90分) に行く。今週はこのマッサージを生き甲斐に耐えていたと言っても過言ではない。こうなることを見越して連休中日に入れていた自分を誉めたい。安くはないが、〆切前のハードワークは年に数回しかないので、これくらい、いいよね……

しかしながら、腰をやってもらったらあまりに固くて自分でも苦笑するくらいで、ちょっとこれはやばいと思った。定期的に来たほうがいいのかもしれないが……。

先日購入した「死別の悲しみに向き合う」を読了。

高校生から学部生にかけてちょうどターミナルケアが流行った (?) こともあり、ちょっとホスピスについて調べたりしていたのだが、その後はだいぶ離れていて、最近になってまた妻とこういうグリーフケアQoL、外傷性ストレスなどについて話したりするようになったので、手に取ってみたのであった。

工学系にいるから余計そう感じるのかもしれないが、こういう例もある、ああいう例もある、という事例ごとに、というか事例だけ紹介されても、あまり読んだあと残るものがないような……。エッセイとしては別によいし、エッセイであるという自覚を持って書いてくれているならいいのだが、なんだかそうでもないようで、もやもやとしたものが残る。一般書だから仕方ないかもしれないが、「こういう説もある、ああいう説もある」という紹介ばかりで、結局著者がどういう立場で何を目指してそういう説を紹介しているのか分からない。そもそも、聞き書きが多くてあまり現実味がない話ばかりだからかもしれないが……。

一方、NAIST 図書館で借りた川嶋みどり「看護の力」はおもしろかった。

看護の力 (岩波新書)

看護の力 (岩波新書)

こちらは日本の看護の黎明期から現代までの昔話を交えながら、こういう患者さんがいたときこうした、この事例はこういう論文になった、というような話が満載で、楽しめる。デジタル機器が氾濫しているが、看護の基本は人間同士のつながりなので、手でさすればいい、とかいった主張は、ちょっとそれは逆の極端ではないかと思うのだが、それでも筋が一本通っているのでおもしろい。

特に最後の章は著者の半生記といった趣で、満州に生まれて敗戦後日本に帰ってきて日赤で学んだときの話とか、体験した人しか分からないような壮絶な話が書かれている。戦後 GHQ が日本の看護のモデル校として選んだのはいまの聖路加と日赤の2校で、聖路加はキャンパスが接収されていたので日赤のキャンパスで一緒に教育され、40人入学した人がいたのに教育が厳しく卒業するころには20数人になっていたが、そこで教育された人たちはいまの大学・病院・行政の中心にいるだとか (ちなみに看護で有名な大学は東大・京大・慶應ではなく、聖路加・千葉大・日赤であって、恐らく一般の人が抱く大学のイメージと違うはず)、全寮制で低賃金で看護婦になる人より辞める人のほうが多かったので、せめて長く続けられるようにと待遇改善のために組合を作ったら同じ看護婦から「看護婦は無償の愛を提供するものだ。それを踏みにじるのか」と激しい攻撃に遭っただとか、日本の看護の歩んできた道を思うと、これまでに想像を絶する厳しさがあったのであろう。

日本の歴史的には「看護婦の自立のためには夫の理解が必要だった」という話も書いてあり、自分は小学生のころから母が日勤・夜勤をする看護婦だったので、看護師として働いていて、いまは看護学の研究をしている妻のことも当たり前のように送り出しているが (いまは東京と京都で二重生活中)、妻が (特に夜間) 働くことを受け入れるのが難しい人もいた (いる) のだろうな、と思ったりもする。妻からも、大学院の修士の学生で、付き合っている人や結婚相手の理解が得られず博士後期課程に進学することを断念する、という人の話を聞くと、なんだか残念な気持ちになるのであるが、そもそも自分の生育環境がそうであったということと、自分自身フルタイムで博士後期課程の学生だったこともあり、たまたま体験していたから理解できたのかもしれず、体験していない人が博士後期課程の学生生活を理解するのは相当難しいとも思うし、幸運なことなのかもしれない。

ともあれ、とりあえず今年度は今年度で今の生活にケリをつけて、新年度は心機一転したいと考えている。