教育とは学びたいという気持ちを呼び起こすこと

夜にお風呂を沸かして入ることと、終電まで粘らず終電の1本前で帰るようにしたせいか、ドライアイは段々解消しつつある。ちょっと無理すると一気に身体のどこかに症状が出てくるのは、歳なんだろう。

午前中、Skype ミーティング。この1週間進捗がないので申し訳なく、代わりにいろいろ話をする。なんでこんなに時間がないのだろうか。〆切前だからだろうが……。

午後は hayato-n くんの研究のために、Kevin さんと3人でアノテーターさんのところにお伺いする。楽天のレビューのデータにChaKi.NETで係り受けや並列構造にアノテーションをされているらしいので、ウェブテキストにアノテーションする勘所を教わろうと思ったのである。そして分かった驚愕の事実は、実際 hayato-n くんがやろうとしているタグ付けは松本先生自ら直々にタグ付けされていたところで、最近はお忙しいらしくちょっと滞っているらしいが、基本的には松本先生がやっているとのこと。あれほどお忙しいのに、合間を縫ってタグ付けをされているとは……。自分も時間がないのを言い訳にタグ付けを後回しにしてはいけないなと思った。

午後は Kevin さんとちょっと研究室に関する雑談。こうやって話す時間がもっとあるといいのだが、なかなか難しい。時間的な問題というよりは、空間的な問題で、やっぱり学生室と共用だと話しづらいな〜。最近は図書室ですら予約しないと昼間は空いていないことのほうが多く、場所を求めて右往左往することもしょっちゅうである。助教になって最初の2年間、masayu-a さんとほぼ2人の部屋だったのは、改めて考えると恵まれていたのだなと思った。

ふと [twitter:@neubig] さんが研究室を訪ねて来られたので、雑談ついでに中村研にお邪魔したら、ケーキをごちそうになった。犬も歩けば棒に当たる、ではないが、外に出かけると思いがけずよいこともあるものである。(小さなしあわせであるが)

夕方、M2 で修士論文の状況がどうなっているか分からない人たちの確認をして回る。なんらかの形で何かを書いている人には論文の添削をしたり研究の相談に乗ったりできるのだが、それに忙しくてほったらかしになっている人たちがいたので、そろそろかなと思っていろいろ話したりする。もっと早いうちから話ができればよかったのになぁ、と思って反省する。時間は有限なので仕方なくはあるのだが、学生数が多いというのも考えものである。

夜、hayato-n くんの発表練習。学内の発表ではあるが、研究室内の身内ではないし、ちゃんと発表ができるようみんなでコメント。とはいえ、テクニカルには言いたいことの99%は teruaki-o くんが言ってくれて、自分などが付け足すことは何もないが、あえて精神論的なことをコメントする。松本研では M2 にもなると、みんなコメント力は教員と同じくらいになるのは、本当にすごいと思うが、学生同士だと言いにくいこともあるだろうし (逆に学生同士だからこそ言いやすいこともあるだろうが)、自分が言う役割かなと思って。

逆説的になるが、他人のスライドの何をどう直せばいいのか、というのは大学院にしばらくいたら、誰でも分かるようになってくるが (自分のスライドの何をどうすればいいのかは自明ではないので、お互い見せあったりするのは大事)、なぜそこをそう直さないといけないのか、というコメントをする能力は、実際に「ここはダメだなぁ、こうすればいいのに」と思っているだけではなかなか身に付かなくて、実際にこういう場所で他の人のスライドにダメ出ししたり、後輩の論文に赤を入れたりするのが一番勉強になる。

というのも、スライドも論文も直すのは本人なので、いかに外野がどこをどうすればいいと正論を言ったところで、人はそう簡単にロジカルに動くものではなくて、本人が納得する言葉で伝え、本人が心底自覚しないと変わらないからである (論理的に正しいことを指摘すれば直る、と思う人もいるかもしれないが、ほとんどの場合そうとは限らない)。たくさんアドバイスやコメントをしていると、聞いてくれなかったり無視されたりしてムッとすることもあるかもしれないが (というかそういうことのほうが多いと思うが……)、自分のためじゃなくて相手のために、相手が分かることを第一に考える、というのがあるときハッと腑に落ちるのかなと思う。

ありがちなのは、相手がコメントやアドバイスを受け入れる心になっていないのに、マシンガンを向けて押し売りするように「ここはこうしないと」「なんでこれやってないの」等々言いまくる、という。心が閉じてしまうと、そこからは何を言っても心に響かないのである。これは気をつけたほうがいい。コメントをする自分が優秀であるという優越感に浸りたいのかもしれないが、コメントするのはされる人のためなので、聞く人が一番身に付くような形で言うのが最良であって、もしかしたらそれはみんなの前で言わず1:1で言ったほうがいいことかもしれないし、逆に発表者以外の人にも伝わるようにみんなの前で言ったほうがいいことかもしれないし、ケースバイケースで唯一の正しい方法があるわけではなく、けっこう難しい (自分もよく失敗したなぁと思うことがある)。

以前も紹介したことがあるが、こういう話は「ベストプロフェッサー」

ベストプロフェッサー (高等教育シリーズ)

ベストプロフェッサー (高等教育シリーズ)

という本を読んで目から鱗が落ちたので、教えることに興味がある人はみんなこの本を読むとよいと思う。自分も身に付いたつもりだったが、改めて自分の日記を読むと自分自身身に付いていないと思い出すこともあり、折に触れて再読したいものである。

さて、終わってから M1 の人の就職相談に乗る。勉強好きな人は、ウェブ系の企業は論文を読んでいる人がけっこういる (昨今の勉強会ブームを見ても分かる) ので、そういうところに行くといいのではないかと思った。もちろん、博士後期課程が一番勉強するための時間が (少なくとも3年間程度) 確保できる選択肢ではあるのだが、出たあと、あるいは出られるかどうかを考えると、勉強が好きであるというだけで行くのはかなり危険なのではないかと思う。[twitter:@kashi_pong] さんの「入出力の壁」という研究日誌を久しぶりに再読したのだが、以下の話は自分も同感。

  • 会社にいたころは、理学系で生きていた人が就職などによって「工学系」に転向する際、「理学と工学の間の壁」を越えることができない人を少 なからず目にしたが、大学に移ってきてみると、ここには「入力と出力の間の壁」があり、それをなかなか超えられない人が多くいるように感じる。
  • 小学校からつづくいわゆる「学校」の世界では、人の能力は「入力」、つまり定められた知識をいかに吸収したかで測られる。 試験などは「正しく入力されたか」を測るための(教師つき学習における)テストセットである。 また、この世界では(先人の努力により)カリキュラムという形で何を勉強すればよいかは定まっており、 勉強が無駄になることはほとんどない世界である。
  • 一方、「そこから先」の世界では、ものごとの価値は「出力」で測られる。 そこでは何をどの程度理解しているかなどといったアタマの中の質は直接の問題ではなく、あくまで出力の質が問題となる。 勉強をすることそのものには価値がなく、それが出力に結びついて初めてその価値があったということになる。 そして、勉強は、ほとんどの場合、(単に、出力に結びつくか否かという意味において)無駄になる。
  • ちなみに、勉強することが不要だと主張しているわけではない。 入力あっての出力、むしろ必須である。 人類が火の使用に至ったことはスゴイことだけど、車輪を何度発明しても仕方ないし、ちゃんと「巨人の肩」に乗ることは最低限。 ただし、勉強は自分への投資などというが、まさにそのとおりで、有限の時間で何を勉強するべきかというのは極めて重要な意思決定事項である。

こういうのは、大学だからこそ感じることなのかもなぁ。