大学もできてから20年経つと落ち着いてくる

週末十分に休んだので、研究室に来る。今日は計算機関係の仕事があるのだ。

午後3時ごろから順次サーバを落とし始め、サーバと机をゼミ室に移動。これで明日の準備は完了。明日は明日で朝から業者の方が来て、備品を設置してくださるのだが、荷物の通り道を開けておかないといけないのである。明日は搬入作業で一日潰れそうだなぁ。

夕方、修士論文の添削に向けて、ジャーナルの査読x2を終わらせておく。
昨日京都で買った「工学部ヒラノ助教授の敗戦」を読み終える。さすがに最近出版が多すぎて、一つ一つの文章は冴えない感じになっているのだが、内容的にはそれぞれほとんど重複しないので、内容に限って読むと新情報がいろいろあった。

さて、これも例の「ヒラノ教授」シリーズなのだが、今回の話は助教授時代、つまり筑波大学にいたころの話。開学当初の筑波大学、特に情報系の学部がいかに職場環境としても研究環境としても劣悪な環境であったか、という恨み節なのだが、国際的に Stanford に並ぶようなトップクラスの計算機科学の学科を目指して作られた大学がどのように運営されていたか (東大の教授から「筑波が東大よりいい待遇なのはいかがかと思う」と邪魔が入ったりとか……)、という記録としては意味のあるものだと思う。

 国が新構想大学の設置を決めた時、候補地に挙がったのは、筑波、木更津、浜松の三か所だったという。しかしどこであっても、陸の孤島度に大きな違いはなかっただろう。
 国際A級の計算機科学科を作るのであれば、陸の孤島ではなく、既存の大学のどこか、たとえば筑波より一年あとの一九七八年に、(ソフトウェア中心の)計算機科学科を作った東京農工大学に、三四人の人員を配置すればよかったのだ。
 この時代であれば、また東京の小金井であれば、筑波のような無惨な結果にはならならずに (ママ) 済んだのではなかろうか。
(中略)
 設立から四〇年を経た今、筑波大学は日本のベストテン大学の一角を占める有力大学に育った。ロンドン・エコノミスト誌もこの大学を、一九五〇年以後に新設された大学の中で、最も成功した一〇大学の一つに数えている。
 国際A級の計算機科学科は出来なかったが、筑波大学建設に投入された一〇〇〇億円は、決して無駄ではなかったのである。
(pp.203-204)

内容的にはこれまでの「ヒラノ教授」シリーズでもときどき筑波大学時代の話が出てきていたので、大体想像していたような内容である。具体的な恐喝や嫌がらせの内容がいろいろ書いてあって、これが大学教員の世界かとちょっと耳を疑うのだが、確かにこういうやり方が横行していたのであれば、著者の言うように超一流の人材は来てくれなかったのであろう。(一方、著者も書いているが、「被害者」の側の一方的な視点であり、「加害者」の人たちは鬼籍に入っているので真相は分からないわけであるが)

ただ、今の筑波大学は、著者が言うような国際A級大学ではないかもしれないが、そこまでひどいものではなく、国内A級大学ではあるんじゃないかな。この本がカバーするのは筑波大学ができる数年前からせいぜい10年間くらいの話であって、その後30年あるので、開学当初に教授として着任された方々は、20年ほどしてもうみなさん引退されたから、だいぶ変わったのだろう。

NAIST も開学してからちょうど20年が経ち、設立当初に尽力された先生方がどんどん定年で引退されているので、ここからの20年がむしろ今後の NAIST にとって大事だと思うのである。