常に学生の上を行くのは教員の義務

久しぶりの前後に出張がない週末なので、家から出ないでゆっくり休む。

先日購入しておいた「スプートニクの落とし子たち」

スプートニクの落とし子たち

スプートニクの落とし子たち

を読み終わる。筆者の東大の理科1類に進学した同期のその後を、高校生時代から定年退職近くまでずっと追った自伝 (他人の話がほとんどなので他伝か?) 的ドキュメンタリー。前半部分は昔話として「そういう時代だったのかぁ」とそれなりに楽しめる。どのようにして助教授・教授になる・なったかとか、筑波や東工大の教員組織のドロドロした話とか。こういう本を読むと筑波の教員の方々はつくづく大変なのだろうと思ってしまう。あと、学際領域だと、工学系でも (博士の) 学生に研究を手伝ってもらうことが組織によっては難しく (たとえば大学院生を受け入れることができなかったりして)、研究に苦労するとか。ただ、後半は他界した同期のプライベートな話が中心で、しかも仮に故人が存命だったら書かなかったであろうような内容で、ちょっと読んでいてしんどい。もともとそういう文体なので、仕方ないとはいえ……。

あと、「キミは何のために勉強するのか」

キミは何のために勉強するのか ~試験勉強という名の知的冒険2~

キミは何のために勉強するのか ~試験勉強という名の知的冒険2~

も読む。先日紹介した「試験勉強という名の知的冒険」の続編で、前回東京に来たときは買わずにスルーしていたのだが、三省堂書店本店に行ったとき売り上げ2位というので考え直して買ってみたのだった。

前回の本が大学入試でどのようなことを問うている (大学入試をすることによってどのような能力が身に付く) か、という内容であるのに対し、こちらの本は教育というのはどういうことか、という内容。一言で言うなら、自分はどのように生徒 (あと息子) を育ててきたか、という内容で、いろいろな人生の選択の場面でどのように考えてどのようにして、結果どのようになったか、という話で大変参考になる。自分にも息子が生まれたらこんなふうに考えるのだろうか。

また、以下の話は以前どこかで聞いた気がするのだが、再度読んで改めて教員という仕事について振り返る。

一つだけ守らなくてはならない義務がある。それは、常に最強の武器を彼らに与え続けることだ。二番目に強い武器を与え続ければ、一見生徒は強くなるが、最強の武器を持つ私には勝つことができない。これはアンフェア以外の何物でもない。フェアであるためには、絶えず自分の持つすべてを生徒に与え続け、それでも常に生徒を越えて見せることだ。もちろん、いつかは負ける時が来る。その時は、彼らが私を忘れていい時だ。生徒が私を超え、私のことを忘れた時、私の仕事は終わる。(p.242)

少なくとも大学以降の学びというのは、教員が知っていることを学生に教えて、理解しているかどうかテストやレポートでチェックする、というようなスタイルではありえなくて、教員も知らないような内容を学生と一緒に取り組んで解決していく (学生がもっと独立している場合もあるだろうが)、というスタイルであり、そういう意味では「学生に二番目に強い武器を与える」などということに意味はなく (もちろん学生の能力に応じて、使いこなせそうにない武器は与えない、という方針はあるだろうが)、全員がそれぞれの持ち場で最善の仕事をする、ということに尽きると思う。

もっとも、研究者としてはやはり常に武器は磨き続け、最先端を走り続けるようでないといけないなと思うのであるが……(往々にして博士の学生のほうが特定の分野に関しては詳しいのだが、教員もそれを上回るくらいでないといけないし、学生もそれをさらに上回るくらいでないといけない、というような感じ?)。

以前も紹介したことがあるが、「ベストプロフェッサー」という本を読んで、大学の教員という仕事についての認識が大きく変わったので、特に博士後期課程の学生〜ポスドク助教くらいの方にはこちらの本をお勧めしたい。

ベストプロフェッサー (高等教育シリーズ)

ベストプロフェッサー (高等教育シリーズ)