構文解析や翻訳の精度が本当に重要か

東京出張があったのでマッサージへ。今回妻が予約を入れ間違えて1人で受けたのだが、一緒に来ないなら来なくていいかなぁ。家でごろごろしているだけで一応回復するし……。

先日購入した[twitter:@takoratta]さんの「挑まなければ、得られない」を読んだ。

挑まなければ、得られない Nothing ventured, nothing gained. (インプレス選書)

挑まなければ、得られない Nothing ventured, nothing gained. (インプレス選書)

先日のプロフェッショナル仕事の流儀を見たときと違い、こちらはブログの抜き書きなので、それほどハッとする下りはなかったが、フォードの言葉で「もし顧客にほしいものを尋ねていたら、もっと速い馬がほしいと答えただろう」というのを引いて、ユーザの声を聞けというのは、今の顧客が求めているものを提供するということだけではなく、将来潜在的に顧客となる人がいるようなものを掘り起こす、というものも含まれ、後者を無視する人が多い、という話に考えさせられるものがあった。

結局研究をしているととくにそういうことがよくあるのだが、今すぐ役に立つ技術ではなく、将来役に立つ技術というのもあるわけで、人間前者を評価しがちだが、後者を的確に評価できる、あるいは後者の開発もできる、というのが技術の価値を分かっている人なのだろう。

自然言語処理でもきっと同じようなことで、使う人に何がほしいか聞いたら「もっと精度が高い構文解析器がほしい」「もっと正確に翻訳してくれる翻訳器がほしい」と言うのかもしれないが、前者で言えば本当にやりたいのは構文解析ではなく文章の意味を知りたいのであって、必ずしも構文解析の精度を上げることが必要かというとそうとも限らないし、後者で言えば本当にやりたいのは全文章の翻訳ではなく他の言語で書かれた文書の自分の興味がある部分だけの概要を知りたいのかもしれないし、それぞれの文の翻訳精度を上げるのとは全然別の方向からのアプローチもあるかもしれない。

雲をつかむような話かもしれないが、そういう探索的な混沌とした状況の中で、本質的な貢献をする、というのは、差分が少ししかない (代わりに貢献は分かりやすい) 研究より、後世に残るものとなるのだろう。とはいえ、インクリメンタルに堅実な研究をすることを否定するわけではなく、そういう研究スタイルの人もいて、両方が協力して前に進んで行く、ということであろう。