メリットデメリットで悩んだらとりあえず直感を信じて挑戦するのも一つの決断

NAISTは今日までが夏季特別休暇。いつもと違ってひっそりしていてよい。久しぶりにゆったり仕事ができる。

とはいえ、論文にコメントを入れたり、実験の方針を決めたり、休暇中でもやるべきことはあるが……。IJCNLPやワークショップの最終原稿〆切が9月2日に延びたのはありがたいが、結局のところ〆切ぎりぎりにならないとエンジンがかからないので、他の予定を優先してしまってまた〆切間際に右往左往しそう。

いろいろあって公募書類を準備。過去の書類からのコピペでいい部分はいいのだが、新しく書かないといけない部分もあり、けっこうな作業。フォーマットの変換だけで済めばいいが、やっぱり公募に合わせて変えるべきところは変えるべきだろうし。あとで松本先生にも送って見てもらわないとなぁ。

どういう経緯だったか忘れたが、@mrcarrotくんと研究談義。といっても研究の内容についてではなく、研究をするとはどういうことかとか、大学に残るというのはどういうことかとか、この1年と数ヶ月で感じたことをつらつらと。Twitterにせよこの日記にせよ、自分が考えていること、自分の身の回りで起こっていることの2割も書いていない自信がある。多少日記に書いたくらいでネタがなくなるようなことはないが、やはりオフラインでないと言えないこともたくさんあるなぁ、と改めて実感。

先週内田樹の「最終講義」を登美ヶ丘イオンの本屋で見つけたので購入して読む。

最終講義?生き延びるための六講 (生きる技術!叢書)

最終講義?生き延びるための六講 (生きる技術!叢書)

著者のブログは読んでいないが、この本はところどころなるほどなと思うことが書いてある。特に「日本の人文科学に明日はあるか(あるといいけど)」と「教育に等価交換はいらない」はおもしろい。前者は自分も元々人文系にいたので思うところあるが、「最終講義」だからここまで本音で言っているのだろうか (汗)

博士課程の若い研究者たち、あるいはフランスに行って博士号を取って帰って来た人たちの発表を聞いて、知的な高揚感を覚えるということが全くなかった。さっぱりどきどきしてこない。
 どうして、どきどきしてこないのか。たぶんこの人たちは、自分の業績をどんなふうに高く評価してもらうかということを考えて発表しているからだろうと思いました。彼らは査読する人たち、自分の業績に点数をつける人たちに向かって発表しているんです。受験生が試験官を前にして、自分がどれくらい勉強してきたか、どれくらいものを知っているかを誇示するように。(p.41)

最近「業績業績」と繰り返す人たち、あるいは「レベルの高い」国際会議に通すことが全てだと言わんばかりの人たちを見ていると、なんだか自分がここにいてはいけない気になってくるのだが、なんでもかんでも受験勉強の延長で、自分がなにを理解したのかを「見てよ、見てよ」と繰り返すのは研究とはちょっと違う何かだろう。

 僕が「ちょっとそれは違うんじゃないか」と感じた人たちは、すごく先端的な研究をしているのかも知れません。でも、何も背負ってないんです。自分しか背負っていない。自分自身のアチーブメントを積み重ねて、それによって評価され、それによって自分が大学のポストなり、社会的なプレステージを獲得するということについてはずいぶん一生懸命やってらっしゃる。自己利益の追求については、きわめて意欲的であることは伝わってくる。でも、「誰か」のためにやっているという感じがぜんぜんしない。(中略) 伝えたいのは研究のコンテンツじゃないんです。「僕は他の連中よりもよく勉強してますでしょ?」という自分の努力についてのアピールなんです。「私は頭がいい」というのが最優先のメッセージなんです。(pp.44-45)

これも東大にいたときよく感じた (ので東大は自分のいるべきところではないと思った)。「将来どんなことがしたい?」と聞かれたとき、真顔で「東大の教授」と答えるような学生がそこかしこにいた (学部生のころは人文系の学部だった) のだが、やりたい内容ではなく権威とか肩書きとか賞賛がほしい、と言うのはなんか自分の感性とは合わなかったなぁ。とにかく大学の教員になりたい、特に東大にずっといたい (東大以外は大学じゃないと思っている)、というのはよく伝わってきたが……

ただしこれは学生だけではなく教員も同じで、「奈良先端大に行く」と言うと「都落ち」のように言われることが少なくなかったし、親しくしていた先生方からも「いつか東大に戻って来られるの?」と聞かれたりして、なんだか残念だったこともある (東大の教員もほとんどの人は過去東大の学生だったのだから、ある意味当然かもしれないが)。いま自分は工学系で人文系とはかなり趣が異なる (たとえば工学系は高専からの編入が可能なので、東大でも学部2年生から他大学の人が入ってきたり、学校にこだわることがあまりない) ので、そういう思いをすることは全然ないのだが……

後半部分もいろいろと考えさせられる。

 小学校の先生からうかがった話ですが、一年生の教室で授業を始めて、ひらがなを教えようとすると、そこでもう「はい」と手が挙がるそうです。「先生、ひらがなを学ぶとなんの役に立つんですか?」そういう質問がすでに出てくる。
 子どもは先生が「はい、ひらがなを学ぶと、これこれこういう『いいこと』があります」と商品の効能を説明するのを待っているんです。(中略) 「賢い消費者になりなさい」と生まれてからずっと教え込まれてきたんですから、「はい」と手を挙げるのは当然なんです。
 この消費者マインドはもう教育の全段階に瀰漫しています。大学でも同じですよ。前にある大学で「先生、現代思想を勉強するとどんないいことがあるのですか?」って訊かれたことがあります。(中略) 自分は腕組みして「商品説明聴いてやるよ」という態度なんです。「お前の説明が納得がいったら現代思想勉強してやるけど、説明がつまんなかったり、オレにわかんない言葉とか使ってたら、勉強しないぜ」というわけです。
(中略)
 六歳の子どもが手を挙げて「先生、それを学ぶと何の役に立つんですか?」と言うとき、子どもは子どもなりに「有用性のモノサシ」を持っているわけです。でも、問題なのは、その六歳児のモノサシで世界中の価値がすべて計れると思っていることです。(pp.214-215)

最近メールで受験や進路 (主に海外の大学に進学したい) 相談を受けていると、自分なりにものすごくメリットやデメリットを分析していて、リスクをとても気にしている学生がたとえば5年前10年前と比較するととても増えているのだが、上の話を読んで「ああ、なるほど」と思った。

学生もすごく熱心で、なにがメリットか自分で網羅的に調べていて、その上で自分が知らないメリットがあるかもしれないから、そういうのがあったら教えてほしい、と言ってきたり、逆に悩んでいる問題に関してこちらからこれこれはどう、と勧めると「それも検討しました。自分にとってはこういうデメリットがあり、リスクが高いのでやりません」と立て板に水を流すように説明してくれる。 先に検討したことはなにか言ってくれれば、それ以外の方法を言えるだろうし、そもそも案を出すだけが話を聞くと言うことではないと思うのだが、なにやら「情報を全部出してくれたらあとは自分で判断するから、とにかく持っている情報を全部こちらに吐き出してほしい」というスタンスのようである。(これは自分もお店で買い物するときなんかはそうかもしれないが……)

自分などは言われたことはとりあえずそこまで嫌でなければ (あと時間がないとかでなければ) やる性格なので、自分なりにメリットやデメリットをまとめて伝えたりしていたが、必ずしもそれは適切な応対ではなかったのかもなぁ、と思う。本人が思っているような評価尺度に沿って答えるのではなく、メリットやデメリットはいろいろあるが、とりあえず行くのは楽しいから行ってみたら、とか、就職活動的には回り道になるかもしれないし、必ずしもプラスの経歴になるわけではないが、そこでの経験や友人は一生の財産になるので挑戦してみたらとか、別の基準で伝えたほうがいいのだろう。(実際、自分もメリットやデメリットを聞いたからインターンやら留学やらに行ったわけでもないし、オープンソースの開発に参加したわけでもない)

自分もこういうのを考えないわけではないが、得失を考えてデメリットのほうが大きそうでも、なんか直感的にこちらのほうが成長できそう、楽しそう、よく分からないけど行っておきたい、というのがあったら挑戦することのほうが多いかな。やってみないと分からないことは多いし、行く前に「どうせ行っても大したことないだろう」と思っていても、行くと「いやいや、これは行く前は分からなかったか相当すごいところだ、来てよかった」と思い直すことがほとんどだし、環境が変わるような決断ではだいたいはメリットを過小評価、デメリットを過大評価していることが多い (自分の評価尺度が元の環境での評価尺度なのである意味当然ではあるが) ので、迷ったときは直感を信じることにしている。

ずっと大学にいたら自分も最終講義をすることになるのかもしれないが、それよりなにより、今年の12月は初の連続講義 (4回) なので、ちゃんと準備しないと (笑) これまで1回こっきりの講義担当は何回かやったことがあるのだが、複数回となると関連性や連続性も考えないとな〜