「勉強ができる」のと「研究者に向いている」のとは全く違う

先日読んだ本の紹介。iPS細胞の山中さんと理論物理の益川さんの対談。

「大発見」の思考法 (文春新書)

「大発見」の思考法 (文春新書)

単なる対談本かと思ったが、さにあらず。特に山中さんが研究で苦労されていて鬱屈していたときの話とか、アメリカでの生活(そして帰ってきてからの生活の落差)とか、インターンのとき「ジャマナカ」と呼ばれていて邪魔者扱いされていたエピソードとか、iPS細胞の発見で注目を浴びるまで、決して平坦な道のりではない研究生活を赤裸々に語ってらして、大いに参考になる。益川さんのシニカルな意見もおもしろい。このお二人の組み合わせ、絶妙ですばらしい。

特に印象に残っているのは "秀才病" の研究者、というくだり。

益川 今、山中先生のもとでiPS細胞研究所で研究したいと思っている研究者は非常に多いでしょうね。
山中 面接だけで判断するのは、なかなか難しいですね。成績があまりよくなくて、そんな優秀そうには見えない人でも、「絶対にこの研究をやりたい、続けていくんだ」という意志の強さや人柄の良さがあれば採用になることもあります。
益川 学生の場合は、「勉強が出来る」のと「研究者に向いている」のとは全く違うので、判断が難しい。ドクター(博士課程)の終盤になると、「これは伸びる」というのは、ある程度わかってきます。
山中 「これは伸びる」と思われるのはどんな学生ですか。
益川 理論物理の場合だと、自分でテーマを見つけて温めていたり、自分で問題に切り込む力があったり、そういう人には「伸びしろ」がある。
 一方、頭がよくて目端がきくだけの奴は、流行の問題をいち早く理解して、チャカチャカッと論文を書いたりする。頭がいいから、やっている研究がちょっと難しくなると、すぐそのことに気付くわけ。で、横を見て簡単にできそうなテーマがあると、パッとそっちへ行っちゃう。器用だから准教授くらいまではスイスイ順調に行くのですが、准教授になったあたりから突然ダメになる。結局、器用貧乏でしかないんです。僕は「秀才病」と呼んでいる。(pp.125-126)

博士後期課程に入ると研究者としての「のびしろ」が分かってくる、というのは自分も納得。修士論文くらいまでは「勉強ができる」というのでするする行く人がいるのだが、産みの苦しみを知らないというか、挫折を経験したことがないというか、困難に直面したときそれから逃げる(当人は逃げたのではなく無駄な努力をしないだけだと言うだろうが)か、なんとかしてそれを乗り越えていくかは、「絶対にこの研究をやりたい」という信念や、「この研究が楽しいので続けたい」というような気持ちがあるかどうか、というのは重要なんではないかと思う。

こういう「のびしろ」を意識的に広げるにはどうしたらいいか、いつも考えるのだが、あまり正解っぽいものはない。異なるバックグラウンドの人と話したり、様々な分野の本を読んだり、いろいろな経験をしてみたりしているが、中学高校生のころと比べるとずいぶん「のびしろ」が減ったなぁと思うことがある。自分は接着される「紙」の側ではなく、紙と紙を貼り合わせる「のり」の役回りのほうがやりたいことなので、「のびしろ」を増やすのが自分にとってどういう意味があるのかよく分からないのだが、いまはまだ「のり」になる時期ではない、という直観があるので、やはり納得行くまで突き詰める必要があるのかな、と思っている。

自分も器用貧乏であるという自覚があるので、できるだけ流行の後追いをしないように、論文を書くことが目的とならないように、そして困難に出会ったら逃げないように、心がけている。どこまで徹底できるか、日々チェックしないとな〜