好きこそものの上手なれ

ボーナスが出た。4月からの勤務なので額は多くないが、助かる。以前代ゼミの寮で住み込みチューターをしていたことがあり、そこで有給をもらった記憶はあるのだが、ボーナスはもらっていたかもらっていなかったか記憶しておらず、検索してみたところもらっていたらしい。

もう9年前かぁ。あのころ面倒見ていた寮生ももう28歳くらい? なにしているんだろうなぁ。楽しいこともつらいこともいろいろあったが、それまでの中高一貫校や大学生活で、いかに無菌室で純粋培養されてきたかを知り、「天を怨(うら)みず人を尤(とが)めず」という気持ちになれたのはあのアルバイトのおかげだった。非常に感謝している。それまでは周りに勉強が好きな人しかいなかったので、「人間話せば分かる、やればできる」と思っていたのだが、話しても通じなかったり、やってもできなかったりするのをたくさん見て、話して分かるのは特殊な状況であり、やってできるのは優れた人なのだなと思ったり。(まあ、やってできる人であれば現役で合格する、もしくは自分でやっていくので、こういう寮に入らない、ということでもあるが)

あと、アルバイト代は時給1000円だったが、部屋代は無料、食費も実費(朝夕で月7000円だっけな?)、大学まで自転車で30分くらいだったし、いいところだった。もう代々木に新しい寮ができたので廃止されてしまったらしいが……。

それで、上記リンクを辿ると9年前にどんな生活をしていたのか分かるのだが、こんなことしていたのか……。今からすれば贅沢な時間の使い方をしていた。2001年はちょうど科学史・科学哲学分科に進学した年なのだが、輪読で

The View from Nowhere

The View from Nowhere

を読んでいたように思う。日本語では(違う本だが)
コウモリであるとはどのようなことか

コウモリであるとはどのようなことか

のほうが有名かもしれない。Amazon の書評にもあるように、英語版の PDF があるので、英語版を直接読んだ方がいいと思うが……。

哲学の話をすると、結局4年間科学史・科学哲学分科にいたのだが、なぜか最後まで心の哲学にシンパシーを感じることができなかった(一応、哲学の中ではホットなトピックだったし、理解しようと努力はしたのであるが)。たとえば、パットナムという哲学者が1982年に提案した桶の中の脳という問題があるのだが、Wikipediaから引用すると

ある科学者が人から脳を取り出し、脳が死なないような特殊な成分の培養液で満たした水槽に入れる。脳の神経細胞を電極を通して脳波を操作できる非常に高性能なコンピュータにつなぐ。意識は脳の活動によって生じるから水槽の脳はコンピューターの操作で通常の人と同じような意識が生じよう。実は現実に存在すると思っている世界はこのような水槽の中の脳が見ている幻覚ではなかろうか?

という話で、同じような話は荘子の「胡蝶の夢」という話もあって、そちらは

以前のこと、わたし荘周は夢の中で胡蝶となった。喜々として胡蝶になりきっていた。
自分でも楽しくて心ゆくばかりにひらひらと舞っていた。荘周であることは全く念頭になかった。はっと目が覚めると、これはしたり、荘周ではないか。
ところで、荘周である私が夢の中で胡蝶となったのか、自分は実は胡蝶であって、いま夢を見て荘周となっているのか、いずれが本当か私にはわからない。
荘周と胡蝶とには確かに、形の上では区別があるはずだ。しかし主体としての自分には変わりは無く、これが物の変化というものである。

という設定で、頭の体操としてはおもしろいのだが、自分がたとえば水槽の中の脳もしくは胡蝶だったとして、全部夢の中の話ですよ、としたとしても、じゃあ自分の生活態度が変わるのか、と言ったら答えは No であり、不毛な議論をしているように思えるのだ。

自分としては、こういう議論をする人には、「夢かどうか確かめるためにその窓から飛び降りてみるとよい」と言いたくなるし、実際自分が夢の中にいたら夢かどうか確かめるために窓から飛び降りてみるのだが、夢の中にいると地面に衝突する前に空中を飛びことができるようになるので、とても気持ちよい。ここ5年くらいは窓から飛び降りなくても夢の中で空を飛べるようになったのであまりやっていないが、それでも簡単に飛べないときは飛び降りてみることがある。夢の中で飛び降りることができない人が、自分は桶の中の脳かもしれないとあーだこーだ言っているのを見ると、けっこうしらけてしまうのであった。

ちょうどシドニー大学にいたときに Philosophy of Mind という授業を履修して、半年ずっとこういう議論につき合って、やっぱり無理、と思ったのと、同時期に履修していた Syntax という授業(世界中の言語の文法を勉強する。未知の言語の文法を、与えられた数十文から構成したりする)がとてもおもしろかったのが、哲学ではなく言語に自分を向かわせる大きな原因だったのだが、「これはおもしろいはず」とか「これは好きにならなければならないはず」とか思ってがんばっても、そんなことしないでも「おもしろい」と感じてしまうことには敵わないんだなぁ、なんて思ったりする。

とりとめもない話だが、10年間ってけっこう長いようで短くて、つい昨日のことのような気がする。それこそ、長い夢から覚めてまだ3日しか経っていないような感じ (笑)