翻訳の不可能性について

今年は機械翻訳をやりたいというD1の人が1人、M2の人が1人、M1の人が2人いるので、研究室内で機械翻訳勉強会が盛り上がりそうな雰囲気を受けるのだが、自分も大学院に来たときは機械翻訳を研究しようと思っていたので、研究グループができるのは嬉しいことである。

自分が入試のときに書いた小論文にも、機械翻訳がやりたい、と書いてある(公開していて恥をさらしているのだが、他の人がどういうのを書いているのか見るのも参考になる人もいるだろうし、公開し続けている)。松本先生からは入試の面接のとき「機械翻訳を研究テーマにするのは難しいかもしれないけど、入学したらおいおい分かってくるだろうから、これだけしかやりたくない、と思わず柔軟に考えて来てください」というようなことを言われたのを覚えている。

実際、機械翻訳を大学院でのメイン研究テーマにするのは難しく、自分はいろいろ模索した末、NTT 研究所の永田さんが「統計翻訳に興味あるんだったら一緒にやりませんか」と声をかけてくださったので、その後サブ研究テーマとしてやらせてもらって、いい勉強になったし、当初の目的も少しは果たせたので、満足している。

そもそもなんで翻訳かというと、大学受験生のころ

英文翻訳術 (ちくま学芸文庫)

英文翻訳術 (ちくま学芸文庫)

という本を読んで(正確には文庫化される前の「翻訳英文法」というタイトルだったものだが、内容は同じ)、英文を日本語に訳すというのは単に直訳すればいいものでもなく、いかに日本語に落とし込むか、という作業であり、それを具体的な例文を用いて「日本語にはこういう性質があるから、こういう英語は日本語ではこのような表現になる」というルールがある、というのを知って衝撃を受けたからである。ある意味当然なのであるが、英文を日本語に訳すには、英語の能力以上に日本語の能力が必要である。

予備校のときの英語の先生が口を酸っぱくして言っていたが、「きみたちは理解があやふやな文があると、意訳しました、と言うけれど、直訳もできないのに意訳ができる訳がないのです。直訳ができてはじめて、分かりやすい日本語に言い換えることによって、意訳ができるのです」というのは正しくて、優れた翻訳家は日本語の能力もものすごくなければ、意図が正しく伝わる日本語にすることはできない。

この本は実は翻訳家向けの専門書なのだが、とても平易に書かれているので、(大学とか大学院とかの)受験生に特にお勧め。英語を目にする機会が多い人は受験生でなくても楽しめるので、ぜひ読んでみられてはいかがかと。これ以上優れた翻訳の実務書は見たことがない。

さて、上にも書いたように、翻訳というのは2つの異なる言語間で同じ「意味」を伝えようとする試みなわけだが、そのあたりの理論的な話を読みたければ

翻訳の方法

翻訳の方法

が気楽に読めてよい(20名ほどの著者がアンソロジー的に寄稿している)。いま久しぶりに著者リストを読み返してみたら、辻井潤一先生も書いてらっしゃる(笑) 英文解釈と翻訳との違い、特に文学作品の翻訳は単にことばを移し替えればいいだけではなく、文化の翻訳なのだ、という話とか、翻訳で問題になる理論的な話のポイントを一通り押さえることができる。こういう観点からは、機械翻訳なんて不可能だ、と言いたくなるのだろうが、機械翻訳はそもそもそういう翻訳を目標としているわけではないし、機械翻訳がターゲットとしている技術翻訳のような領域では、機械翻訳の価値はむしろここ数年ものすごく増している(特にヨーロッパ言語間では)。ともあれ、可能なツッコミどころがどこにあるのか知っておくべきだとは思う。

もう一つ、自分が科学史・科学哲学出身なので引き合いに出すが、科学哲学でも「翻訳不可能性(incommensurability; 訂正しました。患者猫様ありがとうございます 2010-05-18)」というトピック(共約不可能性とも言う)があり、ざっくり言うと「違う言語間では同じ意味を伝えることはできない」ということで、科学哲学の分野では「異なるパラダイム間では共通の比較尺度がないので優劣をつけることができない」という問題に対応する。確かに「パラダイムが違う」というのは「パラダイム A で解釈不能な現象がパラダイム B では解釈できる」ということであり、完全に同じなら同じパラダイムだと言うべきなので、通じない部分があるのは正しい。

なんでこんなのが問題なの? と思う人に補足すると、天動説と地動説は相互に翻訳不可能なのでどちらがいいとは言えないとか、ニュートン力学量子力学も翻訳不可能なのでどちらが進んでいるとは言えないとか、直観的には後者のほうがいいように思えるのに、翻訳の不可能性に議論に従うとそれがいえないので、議論になるのである。思うに、問題は通じない部分はどういうところであり、それが通じないことがどれくらいクリティカルであるかによって、翻訳が不可能であることが問題ないのかまずいのか判断するべきであって、原理的に翻訳できないからだめだ、という反論は(聞いておくのはいいけれど)ポイントがずれている。たぶん、機械翻訳に対して「文学作品の翻訳ができないからダメだ」と言いたい人も、同じ過ちを犯しているのではなかろうか。

こういう話もざっくり知りたい場合は

のシリーズ(全4冊かな? 番外編が出ているのは知らなかった)を読むといいと思う。小説仕立てで科学哲学・言語哲学心の哲学など科学哲学の基本テーマを一通り読むことができる。文庫版も出ているが、全シリーズ揃っていないのと、ちょっとカバーのイラストがダサいので、リンク先から辿ってもらえると……。もしくは、絶版になってしまっているが、同じ著者の
哲学の最前線―ハーバードより愛をこめて (講談社現代新書)

哲学の最前線―ハーバードより愛をこめて (講談社現代新書)

も入門書としては出色の出来である。

こういうテーマで博士まで行って研究者になろうと考えていた時期が自分にもあったのだな、と思いつつ、当時新刊で買ったはずの本が絶版になっていたりする(ほとんどが文庫化されている)ことに軽い衝撃を受ける……