日本語が亡びるとき、IME も亡びる

各地で噂に(?)なっていた

日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で

日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で

を読んでみた。なんだこれは……。歴史的な認識の誤りとか日本の国語国字問題とかそういう部分での知識の欠如とか多すぎて話にならない。まずこれは「論文」ではない。一言で要約すると「ワタシは明治・大正時代の日本の小説が美しくて好きだ。なぜならその時代の日本の小説家は知識人だったからだ。この美しい日本語の小説が読まれなくなるのは腹立たしいので、日本の若い世代でも明治時代の小説が読めるように、日本政府はちゃんと日本語を教育しなければならない」というものである。気持ちは分からないでもないが、そういう気持ちがあったとしても、他人を説得する文章を書きたいのであれば、ちゃんと論理で積み上げる、というのが誠実な姿だと思うが、論理も破綻しているし……(この本は著者のよくいえば随筆、せいぜい週刊誌のコラム程度の文章だと思った)

Amazon の書評でも評価は高くないようだが、コメントを読むと確かに的確である。

たとえば福沢諭吉オランダ語を学んでいたのが「間違い」だったのに気づき、英語を学び直したという福翁自伝

新訂 福翁自伝 (岩波文庫)

新訂 福翁自伝 (岩波文庫)

の話を引いて、「普遍語」ではないオランダ語を学ぶことは意味がなかった、と言いたいようだが、オランダは17世紀にヘゲモニーを得ており、少なくとも江戸時代にオランダ語を学ぶことは、著者が言う「世界の図書館」にアクセスするために当然のことであり、その当時日本で読めるまともな自然科学の知識の本が書かれていなかった英語ではなく、むしろオランダ語を学ぶべきである、という至極まっとうな結論を得ることができる。いま英語が広く使われているからそれを言う事例を出したかったのだろうが、現在の感覚で過去の「文脈」を切り離して「あの選択は間違っていた」と断罪するのは、英語で言えば hindsight であるし、もし仮に英語が今後広く使われることが分かっていたとしてもその時点で日本に入ってきていた知識はオランダ語によるものだったので、これは著者の主張とは正反対である。ちなみに「福翁自伝」は自分も武蔵の中1の「政治経済」の授業のテキストだったので全部読んだが、非常に愉快でおもしろい(明治時代の人たちがどのように苦労して今で言えば「デジタルネイティブ」みたいになろうとしていたのか分かる)ので、お薦めである。

あとこれは意図的に書いていないのか知らないのか分からないが、ラテン語が学問語としての立場を築いていった(つまりラテン語こそが英語以前、フランス語を除くと唯一の「普遍語」であった)というのは非常に西欧中心的な見方であり、歴史的にはアラビア語と中国語が「普遍語」として使われていた。ルネッサンス以降のヨーロッパの自然科学の発展も、イスラーム世界(アラビア語)の数学や化学の書物の「翻訳」によるところが非常に大きい、というのは誰も異論を唱えないと思うが、それは完全に無視しているし……。(元を正せばギリシャ語で書かれたものがアラビア語に翻訳されてイスラーム世界で需要されていたものも含まれるので、「重訳」もある) また、東洋医学においてはいまも中国語(漢文)で書かれたものが原書であるし、少なくとも16世紀までは経験科学の領域では中国語で書かれた文献は高い水準に達しており、技術的にも産業革命以前はヨーロッパのほうが遅れていて、むしろそれ以前は中国の知識をヨーロッパに輸入していたのであるが、そういう事情にも一切触れずに「ラテン語→英語」と歴史は進んできた、と書くのは(知っててやっているのだとするとひどい話であるが)知らずに書いているのだとすると知的怠慢である。というか、人文系の大学院の博士を持っているのであれば、知っているのが当然の内容だと思うが……。(世界史に詳しくない人のために補足すると、上記のような内容は大学入試レベル、もっと言うとセンター試験レベルの知識である。たとえば 中国の科学技術とか)

根本的に論理が破綻していると思われるのは、母語としての英語と第二言語としての英語を混同して進めているところである。どこかで読んだ話だが、ある国際会議の基調講演で招待講演者が「いま科学の世界でもっとも使われている言語は英語ではありません」と話を始めると、聴衆はざわめき始めたが、「科学の世界でもっとも使われている言語はブロークン・イングリッシュです。だからみなさんも自信を持って英語で議論してください」と続けると拍手喝采で、その国際会議はずっと各地で「ブロークン・イングリッシュ」での議論が盛んで大成功だった、という話がある。このように、学問語としても今流通しているのは Queen's English でも米語でもなく、意思伝達のための手段としての言語、英語である。まあ、著者は「小説を書く(書ける)言語」、もしくは「小説が読める言語」に一番関心があるようなので、「ワタシが読む小説の言語が英語になるなんて耐えられない」という感じなんだろうが……

あとこれは脱線だが、インターネットで英語だけが使われるのに対する解決策として機械翻訳は使えない、ということを言うところも、なんか鼻白むというか、がっかりな感じである。一応機械翻訳は西洋語同士の間ではうまくいっているが、任意の言語の間ではうまくいかない、というのは現状の認識として正しいが、その続きのところ

自動翻訳機による翻訳は、いくら技術が進歩しようと、まずは原理的に不可能である。たとえば、ある文章が言っていることと、その文章が意味していること(saying one thing and meaning another)のちがいというものは、すべての言語の本質にある、言葉の修辞学的機能から生まれる。そして、書いた人間の意図と無関係に言葉だけを解読する自動翻訳機では、その言葉の修辞学的機能を理解すること --- たとえば、ある表現が反語的に機能しているのを理解することが不可能である。ひとつの文脈のなかで「自動翻訳機で翻訳したとは大したもんだ!」というのが、皮肉だか皮肉でないかがわかるように翻訳するのは、どうプログラムしようと、ランダムにしかできない。皮肉が通じない人間もいるのだから当然といえば当然である。もちろん自動翻訳機で翻訳された文章は読む快楽を与えない。そして、読む快楽を与えない文章は文章ではない。

(p.249) とある。本人も書いているように、上記の論理であればそもそも人間でも「原理的に」翻訳できないはずなのだが、それが機械翻訳の欠陥である、と言うのは筋が通っていない。そもそもそれは翻訳不可能性 incommensurability として哲学(特に科学哲学)の領域ではさんざん研究されている分野だし、意図と発話についても延々議論があるところなのだが……。「どうプログラムしようと、ランダムにしかできない」というのも端的に間違いである(どういう意味で「ランダム」と言っているかにもよるが)。あと、インターネットでものすごい規模のテキストが読めるようになったので、そこで共有されている知識を英語以外に翻訳する、という話なのに「読む快楽を与えない文章は文章ではない」って、じゃあいったいインターネット上のどれくらいの文章が「文章」だと著者は思っているのだろうか。

この本がお薦めであるという意見にそういうわけで強く否定的だが、ブログ界隈で評判になってしまったので思わず Amazon で購入してしまった人は、第6章と第7章だけ読めばいいと思う。最後に上記のパラグラフのパロディで締めくくろう。(蛇足ながら解説してしまうと、統計的かな漢字変換と統計的機械翻訳とは全く同じ仕組みなので、上記の主張をする人は下記の主張も同意せざるを得ない。つまり、美しい日本語の小説を書く人は原稿用紙に手書きで書かねばならないのである)

IME によるかな漢字変換は、いくら技術が進歩しようと、まずは原理的に不可能である。たとえば、ある文章が言っていることと、その文章が意味していること(saying one thing and meaning another)のちがいというものは、すべての言語の本質にある、言葉の修辞学的機能から生まれる。そして、書いた人間の意図と無関係に言葉だけを変換する IME では、その言葉の修辞学的機能を理解すること --- たとえば、ある表現が反語的に機能しているのを理解することが不可能である。ひとつの文脈のなかで「IME で入力したとは大したもんだ!」というのが、皮肉だか皮肉でないかがわかるように変換するのは、どうプログラムしようと、ランダムにしかできない。皮肉が通じない人間もいるのだから当然といえば当然である。もちろん IME で変換された文章は読む快楽を与えない。そして、読む快楽を与えない文章は文章ではない。

(追記) 2つフォローアップ記事書きました。日本語が工学の言語になろうとしていた時期「日本語」と「国語」について読んでおきたい3冊です。合わせてご覧ください。