人生の諸相シリーズ

昔高校時代東洋史の先生だった岡ちゃんについて書いたことがあるのだが、図らずも岡ちゃんの書いた文章(直筆)が出てきた。故人のものだが、なにかの折に誰かが読んでなにがしか思ってくれる人がいると嬉しいので、転載しておく。

  人生の諸相シリーズ ?入院編 岡俊夫
    医療と学校
 三年前、思いがけず四ヵ月間の闘病生活を余儀なくされた。医学部付属病院という医療機関での入院は、初めての体験であった。「学用患者」(マテリアル)たる僕に対する医療従事者の「意欲」と周囲の心配をよそに、僕は案外暢気に畳の上で死ぬことに思いを巡らしたり、その類いの書物を読んだりして過した。心安らかな死を表象する「畳の上の死」は、昔から今に至るまで人びとの切なる願いである。しかし、かって実現された例しがない故に、現在でも切なる願望とされるのであろう。そもそも心安らかになれる理由は、長い一生からいえば臨死の瞬間によって決定されるわけではなく、生きている時によって規定されるものであって、死は生に応じて収まる……というわけで、四ヵ月間の入院生活も瞬く間に終った。一定期間の破壊(病気)に至った僕の労働力は、医療という優れた補修手段によって、再び消費されるべく、元の職場に送り返された。まさに医療は病気を再発させるために治療するという逆説的宿命を負っている。
 こうした現代医療のあり様は、どこか現今の学校教育の抱えるディレンマにも通底しているように思えてならない。日本の子どもの大半は、その青少年期を学校に囲い込まれている。そこでは「子どものために」という教育幻想のもと、教科という縦割り文化を八つも九つも併行して教わる。知識は細切れになり、思考は絶えず切り替えることを要求される。こうしたスタイルを十数年もの間強制されると、自分が本当にやりたい勉強がだんだんわからなくなってくるのは当然であろう。たとえ知的好奇心をもっていても、それを伸ばす暇もなく磨滅していかざるをえない。その上、学校は学力を点数で後始末をつける。学習の成果は、中身でなく点数で計られ、五段階なり十段階に分けて差別される。勉強の目的は点数を取ることに置かれる。子どもは教師が与える知識を消化し、テストのときに吐きだす消費人間にならざるをえなく、本当の意味での学習から疎外されていく。
 こうして自分が何者であるか見えなくさせられた、学校に慣れた、指示待ち人間(「大きな子ども」)群の前途には、企業をはじめとする学歴化社会による第二次の囲い込みが待ちうけている。連鎖状球菌の蔓延する学校化社会の改革は急がねばならない。その改革は教師と「小さな大人」(生徒)たちが授業という実践の反省と批評を通して、互いに専門家として、人間として育ち合う連帯の場=学びの共同体を築くことを中核に据えなければ、実をともなったものとならないことは言うまでもない。

(初出: 『麦のように』, 第5号, p.26. 1996.)

この雑誌は自分が高校3年生のときに始めた学級新聞(とはいっても1クラス40人なのに他のクラスや学外の人にも配っていたので最高200部くらい刷っていたが)の企画で、学校の先生方に「『人生について』という題で600字の原稿をください」とお願いして書いてもらったものの一部である。

この年になって岡ちゃんの文章、言っていたことを思い返してみると、15歳±3歳程度の生徒を相手に50過ぎの教師が一人の大人として遇してくれていた(武蔵は割とそういう先生が多かった)のはすごいことだ。真顔で上記のようなことを生徒にも言うので、美辞麗句を言っているわけではなく、本気で考えていたのだろう。

NAIST もそうだけど、ああいう環境でないところのほうが多いんだろうと思う。もっとそういうところが増えるといいのだけど、と常日ごろ考えている。そういったことを(話のネタとしてではなく本気で)言ったり書いたりするのは岡ちゃんの影響なのかもしれない。